擬人化、擬本能化?

今日NHKで「ミジンコの生態」を紹介していました。


ミジンコは、カニやエビと同じ類の生き物で、


「環境がいい」とメスだけで暮らし、メスが一人で卵を産んで再生産していき、
「環境が悪くなる」とオスが出て来て、オスと交尾をして硬い卵を二つ作り、
環境が良くなるのを待つとのこと。(「環境が良い」がどういう状態かは教えてくれなかった。)


確か、生物には分裂して増えるものと、あと別なのがあるんでしたっけ?
とにかく、
生物は卵子精子、とか、胞子とナントカとか、必ず「対」のもので再生産していくような気がしていたので、ミジンコがメスだけで、しかも一匹で再生産するというのがわたしには珍しかったです。


オスが常にいるわけではない(メスがオスになるのかしら?)ということは、図鑑なんかに写真を載せるときは、メスを大きく出して、オスはそのわきに、集合写真で欠席した子の写真みたいに入れるのかしら?
そうだと面白いけどね。「必ず男女の対である必用はない!」ってメッセージになる、かもしれない。



生き物の生態は、よく人間の社会にたとえられます。
動物紹介ものですぐに「お父さん」「お母さん」という表現がするでしょ。お父さんライオンとか。
あるいは人間の行いに関することが、動物と同じもの(自然のおきて)として語られもします。


これらはセクシュアリティの話をするときに、とくに強固に動員される言説のようで、
異性愛中心主義の家族言説においては、「生物の本能として男女がつがいになるのが正当である云々」

一方で、
異性愛正当化に意義を唱える場合にも、「生物にも同性愛がある(したがって同性愛も正当である)」的な主張がされることがあります。(植物の世界にその傾向を見つけて喜んでいたというのはジャン・コクトーだったっけ?)


どちらも、自分の主張や当たり前と思い込んでいるイデオロギーを、他のもの(他の動物)や状況を通じて、どれだけ権威をつけられるか、という権威合戦をしてる気がします。


しかし、それでも、圧倒的に異性愛中心の枠組みで動植物が紹介されている現状を考えると、
この権威合戦にもっともっと対抗馬を出す運動に加担したくなる。
わたしは全然知らないのだけれど、ミジンコの他にもウナギやらスリッパ貝やらなにやら、、、
ライオンで狩りをするのはメスじゃないっけ?

それに象とかどうなの?あそこは「おばあちゃん」引率の群れじゃない? 


そして、もちろん、ボノボ