若い世代のエンタメすごいですね。ドラマ『彩香ちゃんは弘子先輩に恋してる』
評判を聞きつけていま『彩香ちゃんは弘子先輩に恋してる』というドラマを楽しく見ています。これは
彩香ちゃんは同じ職場の弘子先輩のことが大好き。女好きの弘子先輩は彩香ちゃんの熱烈アピールに毎日ドキドキしっぱなし!! かわいい後輩×憧れの先輩のじれキュン・オフィスラヴ♡
という漫画のドラマ化とのことで、全8話のうち今回は5話まで。
なんだか浦島太郎の気持ちです。いまの若い世代のエンタメってこうなんだ!かわいくて楽しくて、配慮もしてるし、歩を進めてくれてすごいなーって毎話思っています。
が、今回の第5話に関してはバーのドジっぷりが気になる。レズビアンであることをオープンにしていない弘子先輩にとって解放的でいられる唯一の場所が行きつけのバーなのに、 そこのママと常連客が、本人のいないときに、事情を知らないその知人に聞かれるがままに「武勇伝」べらべら喋るなんて、、アウティングだよね?あとになって「知り合いなんて気づかなかったゴメーン!」ってなってたけど、あの状況で気づかないのはまぁドラマだからOKとしても、そもそも知らない人に他人のプライベートをべらべら話す?バーの心得としてもどうなのだろうか。
異性愛中心主義から離れられるレズビアンバーだからこそ心理的安全性が高くて、解放された気持ちになれる。だからこそ一種の仲間意識みたいな感じで、その場にいる人に対して口が軽くなるのもわかります。
そして、このドラマ自体が女性同士の恋愛をポジティブに描こうと努めてくれているので、今回の「アウティング」(って感じたの私だけかもしれないので一応「」つける)も大きな問題じゃないという前提、むしろ良い方向に作用するのかもしれないけれど、古い価値観に縛られている私にはまだこの感覚はわからない。まだ怖いわ。
なので、次回以降でこのあたりも軽く回収してくれるといいなーと思っています。
しっかし、浅丘ルリ子が女性の恋人を殺して食べて極刑になるドラマ時代と比べて(比較対象どうかと思うけど)隔世の感がありますね。
製作サイドで絶対言わないこととかちゃんと決めている感じがして、心理的安全性の高いドラマだなーと、それだけでもありがたい気持ちになってしまいますが、かわいいし軽妙な脚本も楽しみです。いやー、いいですね。若い世代ってこんななんだ。日本のエンタメ界もっともっと進んでほしいー。
(何年ぶりかにログインしたんですけど、使い方あってるのだろうか。)
誰か探しの本
誰かを探すといえば探偵小説がすぐに思い浮かぶけど、探偵小説は誰かを探すのは本題のキッカケか過程の一部であって、焦点はその誰かを取り巻く事件の解明なのに対して、「誰か探し」が焦点の小説を偶然二冊読んだのです。
サラマーゴはいろんなとこに説明がいっぱいあるのでさらっとだけ触れます。名もなき小役人(実際はこの小説で名前のある登場人物は彼一人なんだけど)が、ふとしたきっかけで、とある女性の帳簿を手にしてしまい彼女が何者なのかを探っていくお話です。
私はこの小説が初めてのサラマーゴ体験で、とっても面白かったので他の作品も読んでいるのだけど、いまのところ『あらゆる名前』がいちばん面白いです。『白い闇』がなぜ評価が高いのかイマイチわからない、こっちの方がよくない??タイトルもスバラシイ。
もう一冊、Ellen UllmanのBY BLOODは、サンフランシスコを舞台にした小説で、なんらかの事情で大学教員の職を追放された男が、事務所の隣の部屋から聞こえる心理カウンセリングの患者、自分を育てた家族が「本物」ではないと疑っているレズビアンの女性、の話を盗み聞きし、この患者の過去を(彼女にあったこともなければ頼まれてもいないのに、執拗に探っていきます。この男が職を追われた理由(正確には処分保留)も不明なら、今後の身の立て方もわからないままというのもミステリアスです。
出だしがノロいのですが、途中で男がSFのレズビアンのクラブに足を踏み入れて女たちにとっちめられたり、いきなり素晴らしいワンナイトスタンドの話になったりと飽きさせない展開なうえに、話はナチス支配下のポーランドへむかい、現在と過去の間で、彼女が本当に探しているのは「ほんとうの家族」ではなく、「ほんとうの家族」を必要としている「自分」の救済なのかもしれない、そんなふうに示唆されたりして読み応えあります。
というわけで、どちらも誰でもない/誰かによる誰か探しというアイデンティティ小説を偶然二冊読んでしまいとても面白かったのですが、わたし自身はそれを求めているかというと、そういうエネルギーに欠けるため安楽かつ楽しい生活の方をよっぽど求めてたりします。
みすゞさん
先日山口県に行きました。そこで金子みすゞ記念館にも行ったんですけど、わたくし寡聞にして殆ど知らなかったのです。
そんな無知なわたくしが記念館で思ったのは、なんかさー、なんつうの、「童謡詩人」というスポットの当て方のせいか、時代背景や彼女をとりまく社会問題がごっそり削がれていて(「夫のせいで苦労しました」的な背景は説明されてるけど)、批判性もないし、なんとも気の毒な扱いになってないかなーってこと。子どもの「無垢」っぽい朗読とかの無垢っぽい演出、どうにかならないのかね。
まあ、わたしがフェミニストだからそう感じるのかもしれないけど、彼女の詩に、女の子はこれやあれはしちゃいけない、わたしは知ってる、だって一度それをやって叱られたからというようなものがあったけど、そういうのにもスポット当てていいんでない?
小さいときにみんなの「噂」になるような大親友の女子がいたこととか、弟との関係とか、切りくちたくさんありそうに思えたけど。
あの映画、、『めぐりあう時間』だっけか。あれみたいにさー、彼女も違う種類の情報、違う言説に出会っていたらどうだったろうかと思った。あの映画は最後は男の話に吸収されちゃうけど。
またどうでもよくされてる
さて、わたしはいま「年刊日本SF傑作選:量子回廊」大森望・日下三蔵編(創元SF文庫)という短編SF集を読んでいる最中です。
ときどきこういうナントカ集を読んで、次に読みたい作家を探したり、よく目にするけど読んだことのない作家の作品を読んで、へーこうゆーの書く人なんだーと思ったりします。
今回もへーとかほぅとか思いながら読んでいるのですが、この短編集は面白いSFなだけでなく、、というか、SFならではの融合により、非へテロなセクシュアリティがたびたび登場しています。森奈津子は当たり前として。
そんでまあ、田中哲弥という人の「夜なのに」という短編までたどり着いたわけですが、この小説、クスっと笑える小説なんですけど、そのなかにチラッと残念なことが。たいした話じゃないんですけど。
短編なので、これについて書くとかなりネタバレになっちゃいそう。、、以下読まないで下さい。
主人公の少年(俊司)はある日近所の80歳のおじいさんに相談されます。おじいさんは俊司の同級生(佐織)と付き合いたいと言うのです。佐織の友人(友梨子)に思いを寄せる俊司は、これをきっかけ友梨子と近づければいいと話に乗るのです。(赤字は引用)
いよいよ、俊司と友梨子とその友人二人が同席するなかで老人が佐織に告白する、という場面です。老人が佐織に付き合っている人がいるのか尋ねると、
「今おつきあいしている人はいません、(略)、、でもわたし友梨ちゃんのことが好きなんです。友だちとしてではなく、友梨ちゃんを愛しています」と、「喫茶店内が真っ白に」なることを言います。
「高校卒業したらもう今みたいに毎日会えなくなると思ったら、黙っていられなくなった」吉沢佐織はそう言うとすっと立ち上がり、躊躇なく友梨子の頭を胸に抱いた。「友梨ちゃん大好きっ」
と「ものすごい」展開になるのですが、そこで老人が
「で、話の続きなんだけどね」平然と入り込んきて、友梨子の後頭部を愛おしそうに撫でている吉沢佐織に向って
「ぼくとおつきあいしてもらえますか」 (ここ小説のなかの笑いどころの一つね)
「今ものすごいことが起こっているのがわからんのか」と諭す俊司にも老人は「そんなことはどうでもよろしい」とどこ吹く風。そのとき
友梨子の頭を抱いたまま吉沢佐織が山下老人に微笑を向けた。「あたしでよければ」(この展開も笑いどころね)
その後山下老人と吉沢佐織は本当にお付き合いを始めたそうだが、どういう状態が「本当におつきあい」なのかはさておき、佐織が友梨ちゃんを好きってことはホントに「どうでもよろしい」ことだったのだなぁ!と思わざるをえません。
まあ、そもそも俊司と友梨子の恋愛成就(、、ってなんだよ。)の物語なので、その他のアイテムは全て脇役なんですけど、それにしてもねぇ。大人になってからの同窓会で明らかになる吉沢佐織は
「今タイにいるんだって」旦那さんの仕事で。
「そうか、ちゃんと結婚したんだなあ」
とのことです。ちゃんとじゃない結婚の仕方ってどういうの?ってことはさておき、あーそうなんだー。この小説ではいい年齢の男女カップル以外は全てムシされて吸収されるのねーって。まぁ、超どーでもいいんだけどさ。
くじけ作戦にくじけました
わたしは一人でレストラン入れないし、喫茶店も入れません。お一人様行動大不得意。ファミレスくらいはいけるでしょう?って言われるけど、それも想像しただけで弱り果てます。
そんなわたしが一人でデモに参加するなんて、ほんっとにハードルが高くて、ちょっとでも向かい風にあたったら、ちょっとでもつまづいたら、途端にくじけそうなんです。だから今日も、しくしく、さっそくくじけて帰って来たんです。えーんわたしのバカバカ!ごめんなさい。
だってね。ぼくたちわたしたちの町をなにかから守ってくれてるらしいけいさつの人たちが、デモの人たちをぐるっと囲っていたんです。あの制服を着た集団が囲ってるって、二つの点ですごい作戦に思えます。
だいいちに、なかで迎え入れてくれるかってことからして不安なのに、それ以前にハードルができてそのなかを通って入っていくなんて、相当の勇気が必要だもの、、。わたしみたいな人は「ここを通っていかなきゃ、、」ってイメージするだけで怖気づいてしまいます。
今日もぐるっと囲っている端っこから、どうしよう、どうやって入ればいいんだろう、えーんあたしにはムリ!!ってドキドキ泣きそうになって様子を見ていました。ちょっと様子を見て方針を決めよう、って。そしたら2秒後にさっそくおまわりさんが近づいてきて「公道なんだから通るなら堂々と前を通っていいよ」って勇気づけて(?)くれました。
けど、その意味は「通るかどうするのか態度を決めろ、ここに止まってるな!」ということなのでした。
「あ、いえ、あの、、ちょっと見てたい」ってモジモジ答えたら「み・て・た・い??!!」って他のおまわりさんも二三人近づいてきて、、、あの制服で取り締まり的に近づかれるってさ、怖くない?わたしはもうドキドキしちゃってシドロモドロになりました。公海も通っちゃいけないように、公道も止まって見てちゃいけないみたい。
まあ、こんな感じの作戦で、意気地のないわたしのような人は入れなくなっていて、デモに参加できるのは勇気ある選ばれし人だけ、ってことにさせられちゃってるんだけど、この作戦のすごいところは、それだけじゃないと思いました。それで二つ目。
おまわりさんたちにぐるっと囲まれていると、デモの人たちが孤立して特殊化されて見えちゃうの。
数値にたとえてみると、デモ=10 非デモ=0とくっきり二分されてしまって、殆どの人がそうであろう、そのあいだの曖昧な√5や2.3や8 2/1、あるいは−20や2068は見えなくしてしまう。*1
ふらっと5分だけ参加とか、曲がり角まで参加とか、たまに合流とか、そういうのができない。そういう行動ができないだけじゃなくて、そういう心情の持ち方もできなくしてしまう、心のなかの10でも0でもないグレーゾーンの部分はただただ埋もれてしまう、そういう効果があると思うんです。
これはすごい作戦だな、と思いました。
そういうわけで、くじける材料がいっぱい巻散らかされてることがわかりましたので、くじけがちなわたしは行くならせめて誰かと一緒に行くようにします。
追記6/7:そうなんですよね。わたしは遅れて行っちゃったので、すでにああいう形ができあがっていました。KIM625さん。でも早く行ってもこないだのとき(…っていつだよ?)みたく、モジモジする時間が長いだけかもって思って。ムズカシイですね。いや、ほんとは難しくないんだろうけど。いつかのときのために靴2ペアとっとこう。
*1:今日の場合休日の麹町だったせいかそもそも人通りなかったけど
切り離さないで
今日世界のニュースみたいなの見てたら、パレスチナの子どもたちの絵葉書を日本の子どもたちが見て考える、みたいな話やってたけど、コレどうなよ!って思った。戦争とか悲しいときにも明るい気持ちを忘れないで、みたいな話にしてっからしにさ、その絵葉書に描かれる戦車には必ずイスラエルのダビデの星がついていたのに!!
こういう子供同士の交流っぽい雰囲気を演出したいときにはなおさら、戦争は空から降ってくる災難みたく扱って終わりにするよね?そういうのやめてくれない?単純化して見積もっても、戦争は攻撃しようと決めてる大人がいるからあるんでしょ。こんなことで締めくくってるようじゃますますわが国のわたしらはアホになる一方だよ。こんなことが繰り返されるせいで「政治的なこと」というキケン扱いの囲いが勝手に作られて*1、それらから離れた「中立」があるかのような錯覚起こしちゃうんじゃないの?
絵葉書に掛かれてた戦車にはぜんぶイスラエルの国旗が描かれてましたよ。ある人の主張を大きなメディアが全く無視するのは、「中立」じゃなくて、別の何かへの加担だってことをせめて少しでも仄めかして欲しい。ヘンな中立の立場を纏ってみせないで欲しいです。
*1:ほんとは何でも政治的だろが!