キャンプ

「キャンプ」について耳にすることがあったので、わたしもキャンプについて書いてみようと思う。
ゲイの「ストレート市民」化が主流と言われている(どこで言われてるかはいえないけど)現在、「キャンプ」なんて言葉は流行ってない気もするけど(わたしは使っているんだけど)、でもだからこそ、ちょっと考えてみようと思う。

まず「キャンプ」とは何か、、、森でのハンゴウとバーベキューではない。
クリストファー・イシャーウッドの小説では「キャンプ」とは「老子のタオのように定義しがたい」と書かれており、スーザン・ソンタグはキャンプの定義を数十項目に渡って説明しようとして、しかも「キャンプについて書くことはキャンプを裏切ること」とまで言う。なんか神秘的なもんなのかという印象だ。(ソンタグは違う意味で裏切っていると思うのだけれど、それはさておき)dictionary.comによると

Having deliberately artificial, vulgar, banal, or affectedly humorous qualities or style→ わざと人工的に陳腐にしたり、ユーモアがある気取った感じやスタイルがあること。


わたしはこれに「自然化された差異体系をズラす視線を可能にする」という点も付け加えたい。人工性や演じることそのこと自体を演じてみせる。一種の「異化作用」です。
「自然化された差異」というギコチナイ言い方ですみませんが、これは例えば「女らしさ」や「男らしさ」といった当たり前のようにされている性別別の振る舞いや性質、慣習のこと。(「当たり前とされている」というのは、わたしは性差は自然に備わっているナニカではなく、社会的に構成されたカテゴリーだと思っているから。)
こういうものに対して、それをズラす視線、不自然にする見方を可能にするものがキャンプだと思うのです。だからそれは何らかの感覚であるだけでなく、政治的な可能性を持つ感覚になる。

そうした認識が可能になるのは、それはキャンプなものの働きかけだけでなく、見るほうの側の感覚が大事だと思う。キャンプなものは、ただそこにキャンプとしてあるのではなく、見る側次第でキャンプになるのだ。だから、誰もがキャンプ感覚を共有することできるわけではないし、キャンプを目指して作られたものはキャンプになりにくい、のもそのためだと思う。


といったわけで、わたしがキャンプと思うのは、、、

市原悦子
若尾文子(とくに原作谷崎モノ「卍」「鍵」)
ときどき白石加代子岸田今日子、小川眞由美  

天地茂の明智さん
金田一耕介映画

2時間サスペンス・ドラマ

他にもたくさんあるはずだけど、、また考えてみます。、、新しいものに目が行ってないみたいですいません。