競争の喩えってどうなの?
「格差社会」という言葉を耳にするようになりました。耳にするようになっただけで、「格差」は昔からあったと思うのですが、それはさておき、昨日もテレビでそんな話題が出ていたそうですね。「格差社会は良いか悪いか」という意味のわからない議論があると、いつも「頑張った人が頑張っただけ報われるべき(平蔵)」とか「競争が社会を進展させる」といった主張が出てきますが、そのたびに疑問に感じざるをえません。「競争」「勝ち」「負け」というのが、ひたすら「自己責任」にされてしまうことが怖いのです。
そもそも格差と競争は同じレベルの話でしょうか? 競争は賃金格差の妥当な喩えなのかしら?
競争というのは、スタートとゴールが決まっています。足で走るとか車で走るとか、手段にもルールもあります。では、社会の競争っていうのは、どこにスタートとゴールを設定しているのでしょうか?そのゴールまでの手段は?(だいいち、なんの競争?「自由競争」って誰にとっての「自由」?)
年齢で統一してみるとして、、社会での競争が
0歳のときに始まるとしたら、、例えば、高学歴の高収入のご両親をお持ちの男児と、パートで働く母子家庭の女児とは、同じスタートラインに立つといえるでしょうか?あるいは、同じゴールを期待されているのでしょうか?同じ乗り物に乗っていると前提にできるでしょうか?どうもわたしには運転手付きの高級車と三輪車くらい差があるように思えます。この人たちのどのような状態が、誰によって「頑張っている」と判断され、報われるのでしょう?
38歳のときの競争だとしたら、
大手企業に勤めている男性と、女性、フリーターの男性、フリーターの独身女性、兼業主婦の女性とで、いったいどのような競争をしているというのでしょう?
この人たちのどのような状態が、誰によって「頑張っている」と判断され、報われるのでしょう?
こういうすでに社会に組み込まれている格差制度をウヤムヤにしたまま、「『頑張ってる』と認識されるところ」にいられる一部の人たち、つまり「正しい性別」で「正しい年齢」のときに「正しい場所」にいるラッキーな人たちだけを対象にした、言ってみれば勝ち組が勝手に決めた規準での「競争」や「がんばり」が奨励されている、、そんな気がしてしまうのは、わたしの被害妄想でしょうか?
このあいだテレビつけたらおっさんがパート雇用のことを「ワークシェアリング」と呼んでいて、なんというか、、驚いたのですが、正社員とパート、保証も賃金も全然違う人同士で「シェア」?って言うの?こういうのがワークシェアリングの定義なのでしょうか?わたしは用語の使用法を知らないので、そういう意味なのかもしれませんが。だとしたらイヤなシェアですね、、。保証がある正社員はそのぶん心にもゆとりをもてるけれど、そして仕事に縛られるけど、パートやバイトは「仕事があるだけありがたいと思え」と言われている気がするのは、、、これまたわたしの気のせい?
でもこういう就業形態の差も「競争」という点から見ると、勝者じゃないのは本人のせいというわけですよね。で、どのようないきさつで一方は「正しい社員」になって、一方が「パート」になったのか、、病気、出産、別の目標、、、最初はおそらくちょっとした違いだったと思うのですが、この違いはもう二度と取り返しがつかない差になってしまうのではないでしょうか。
性差別と年齢差別は、一度レールを外れたら取り返しができない、機会否定の社会を再生産し続けると思います。
こういう機会否定/機会制限を「不変の規準」としたうえで「(想像上の)競争」が持ち上げるとしたら、うまく乗り越えた人だけが「偉い人」「頑張った人」として誉められ、その裏にいる、「がんばってる」と認識される場に行き着くことさえ遮られている人たちのことは闇に葬られたままになってしまいます。
、、言い換えれば、「競争」は、一部の人だけに都合の良いスタートラインを勝手に想定したうえで、車や飛行機で競争する人がいるなかで、乗り物を持っていない人に対しても「走れ、負けるのは自己責任だからな!」と脅す比喩でしかないと思います。だから競争云々と言う前に、わたしは雇用についての性差別、年齢差別をまずなくすべきだと思うし、最低賃金を上げることと雇用の産出が必要だと思うのです。そういう対策を政府にはぜひ練って欲しいのですが、、、、、、、、、、、、、、、あれじゃあね、、暗くなりますね。
こうした不平等の自己責任化だけでなく、「低賃金の人は頑張ってない」言説も注意したいところです。「頑張った人が報われる」のであれば、低賃金(=報われていない)のは「頑張ってないから」ってことになってしまいますものね、恐ろしいことに。それと、「生活保護受けてる人が生意気にもタクシーに乗ってる!」だとか「態度がでかい!」とか、わたしも聞いたことがありますが、そんな態度の人は一部だけ、ということはさておき、「生活保護受けてるくせに、、」とか「ナントカのくせに、、」とか、そういう条件付けがされてしまうのが怖いと思います。どういう立場の人が何をしていいのかという規準は、、身分をわきまえろ!という規準であって、、格差を受け入れろにもなりそうです。(どこでどういう態度がふさわしいかという知識も資産ではないでしょうか、その資産へのアクセスがあるのは今の世の中では特権的かもしれません。)
個人攻撃する前に、もっと社会的に改善すべきところを攻撃すれば、社会が変わる大きな声になるのではないかしら、夢想家って言われるかもしれないけれど。
「格差社会」と言われてきたってことは、どのような仕組みがどうのような格差を再生産しているのかをチェックするチャンスにもなると思います。わたしはもちろん低い生活水準の温床となる制度が是正されることが良いと思っているので、こう考えるわけですが。ま、わたしが金持ちになれれば少しは良いのですけどね。