別の可能性
こんな世界はいやだ。後期産業社会の競争市場はわたしたちに値段をつけて、「資本主義の認めるような価値がなければ存在価値ナシ」と追いたて、「価値ナシ」とあらば切り捨て、貧乏生活を強いていく。グローバル搾取やローカル貧乏を作り出しているこんなシステム、早く死ね!デストゥキャピタリズム!!!
というわけで、こんな存在の仕方ではない、別の生き方、別の可能性があるはずだし、そんな別のあり方に希望を持ちたい。と、常々そんなことを思って暮らしているのですが、、先日ふと、この本を思い出してしまいました。コリン・ウイルソンの『アトランティスの遺産』 (ずっと前に親戚のおじいさんに「勉強をするなら、この本を読むといい」という意味不明な理由でもらったのです。どういうつもりだろ??)この本は、ピラミッドやスフィンクスやマヤ文明よりずっとずっと昔に、超古代の文明社会があったという数々の主張をとりあげて、それを支持する方向で検討している本。
現在の「知的存在」とは別の存在の仕方があったのではないか、という超古代ロマンなのです。
で、「別の存在」とは、たとえば序文で、木を使って交信しあう人たちについて最近の例をあげ、、
木に向かって話している人に「なぜ木に話し掛けるのか」と聞くと「貧しいからよ、金持ちだったら電話を使うわ」という答えが返ってきたという。
「これが意味しているのは、」とウイルソン、「電話を使うことで、私たちは遠い祖先が当たり前のものとして持っていたある能力を失ってしまったということのようである。」
うむ、きっとそうに違いない。という気になってくる。
いまだって、大きな数字の計算を一瞬で、感覚で、わかる人や、一度聞いた音楽を再生できる人や、120年前の2月28日が何曜日がわかる人とかいるもんね。
さらに読み進むと、現在の人類は第5番目に登場した知的存在であって、一番初めに現れた人類?は完全にエーテル体であった!という説もチラッと紹介されている。物質であるものこそが存在である、というわけではなかったやもしれない。わたしもだんだんそんな気がしてきました。TRexだってLife's a gasって歌ってたし。Oパーツの謎もこのへんにあるに違いありません。
、、、というわけで、わたしがムーの愛読者になる日も近そう、、、
ムーの愛読者になるのは別にいいのですが、わたしが自分に対して問題だと思うのは、こんな風な超古代ロマンにロマンを求めない限り、現在とは違う「別のあり方」が想像できないんではないか、ということです。
昔は「イマジン」ってちょっと直球過ぎるわって思っていましたが、いま一言一言思い返すとその通りだよな、、って思います。わたしもオルタナティブな世界を目指す力が欲しいのです。