「児童性愛者」

世界で唯一、合法であるデンマークの「児童性愛愛好者協会」。フリージャーナリストである著者が、児童性愛者(ペドファイル)の実体を探るために、「児童性愛愛好者協会」に潜入取材を行った。その詳細を綴る。

へー、唯一なんだ、、なんか意外。
↓この本

児童性愛者―ペドファイル

(いままで、児童性愛についての本は)インテリぶった理論的考察や、児童性愛者を頭から「変質者」と決めつけ身の毛のよだつような興味本位の話に仕立て上げたものはたくさんあったものの、こうした人々の実像に迫るものはほとんどといってよいほどなかった。

と指摘しているが、実際はこの本だって、頭から「犯罪者」と決めつけた「犯罪組織潜入ルポ」って感じがする。いや、感じではなく、頭から決めつけてる。
書かれている内容と問題提起は、児童ポルノや売春ツアーなど想像できる範囲を出ていないし。


もちろん、だからといって問題が重大でないわけでは全くありません。ものすごく問題です!でも、それは「児童性愛の問題」というよりも先に、「人身売買と売春と児童虐待」の問題だとわたしは思う。
そして経済的格差の問題。
、、、ただ、、わたしはそう思ってたのだけど、、、「合意」の問題を含めて、
果たしてこの両者(児童性愛と児童虐待・人身売買)は切り離されるのか、というのが「難しい」とされているということが、この本を読んでわかった。


というのも、この本では「児童性愛」と「児童虐待行為」を一切切り離さず、それどころか、この二つは分かつことができないと考えているからだ。それはこの本のなかで唯一面白くて複雑な下の問答にさえ見て取れる。
デンマークでは、結社の自由という点から、「児童性愛愛好者協会」も存在を認められているという。そのことを、この著者たち取材班は糾弾しているのだが、法務大臣に対して行ったインタビューでこんな問答があるのだ。(ちなみに法務大臣がこの協会をみとめている側。)

大臣「(もしも児童性愛者協会が、子どもとの性行為という犯罪行為を勧めているのならば)私にとっても衝撃のきわみです。でも、私の理解している範囲では、児童性愛の指向があるからといって、必ずしも実行行為に及ばないのではありませんか」


質問者「どのようにして、実行せずに性的指向を持つことができるんですか?」


大臣「ううーん、それはわかりませんよ。その人たちに聞いてくださらないと」


質問者「だって、いまそうおっしゃったばかりじゃないですか」


大臣「児童性愛者が言うには、犯罪になるような虐待はしない、ということです。自分の性的指向を実行せずに、どのようにして児童性愛者でおられるかは、その人たちに聞いてみてください」


「どのようにして、実行せずに性的指向をもつことができるのか」、、、、
果たしてこの質問自体が有効な質問なのかもわからない。


そもそも「性的指向」は「何らかの実行」を伴わないと成立しないのか。
何をもってして「性的指向の実行」と言うのか。


性的指向」は、頭のなかにあるのか?なんらかの行為によって実現するのか?それとも、、?


「何」が「どのような」「性的指向」なのかを認識すること自体、歴史的文化的社会的背景なしに語れないと思うのだけど、、、。「児童性愛」が「性的指向のカテゴリー」として語られる(否定的な語り方だとしても)、最近のことなんじゃないのかし?どうなの?だったら、誰によって(アイデンティティとして)語られたり認識されたりされなかったりするのかってことも問題じゃない?


残念なことに、この本ではそういったことには関心がないのである。

この本が指している「児童性愛の実行」は、「子ども(特に貧しい地域の子ども)という経済的に独立できない人たちが犠牲になる行為」だけなのだ。そりゃ許せないよ!
こんなふうに「児童性愛=犯罪」としてしか示されていないから、したがってこの質問(「実行せずに指向をもてるか」)も、「犯罪を犯さずに犯罪者になれるか?いやなれまい。したがって児童性愛者(=犯罪者)は犯罪を犯しているのである」と言ってるだけなのだ。…とはいえ、この本を読むと、実際この協会ではそんなことばっかりしてそうなのだけど(これは児童性愛すべてが犯罪ではなく、この協会の問題なんでしょう。)


というわけで、「実行しないで性的指向をもつことはできるのか」っていうのは、わたしの頭では処理できない難しさなんだけど、この本では、そんな認識論的問題を全面的に無視しているので、この質問をすることによって「児童性愛には実行(犯罪)が伴う」という図式を定着させている。ひたすらこれに焦点を当てるだけなので「ペドファイル=変質者」を叩きのめせ!で終始してしまっているのだ。ペドファイルってそういうことなの?頭のなかの自由とは関係ないのかし?



わたしは、、「児童性愛」は可か不可かといった二択ではなくて、例えば、どうしたら子ども(特に貧しい地域の子ども)に知識や情報や選択や安全を供給できるのかっていう議論が必要だと思う。特に知識と選択。経済問題。