『バッシング』

主人公はボランティア先の(イラク)で拉致され世間に騒がれた人。映画はこの人の帰国後の生活を描いている。帰国後も「自己責任」を問われ、家族とともに激しいバッシングを受ける、という映画。


「ボランティア」だの「人質の自己責任」云々という映画のチラシやほのめかしがなければ、この映画は「閉鎖された社会を描いたホラー映画」として、よくできていたと思います。荒涼とした海岸沿いの工場地帯、挨拶もない仕事場、追い出し、鳴り止まない嫌がらせ電話、孤立する家族。「なんでわたしが?」という思いばかりが鬱積していく。次々と襲い掛かるイジワルはまるでホラー映画なんですもの。そういう映画としてはよくできると思いました。


だけど問題は、これがホラー映画ではなく、「イラクで人質にされた人への非難」という特定の非難が題材とのことで、映画でもそう仄めかされていることです。
そう設定しておきながら、、仄めかし以外の文脈がないのですよ!わたしはこれがものすごく気になりました。これって、脈絡なくイラクに(お菓子をあげに)行き、脈絡なくイジワルされた事件なの?って。


あの人が、ボランティアに駆けつける決断をした社会的背景もないし、
バッシングする人たちが、「自分(たち)は正義」って思い込む文脈もない。
社会的政治的背景が一切ないのはいかがなものか。これじゃただの「イジワル村」ではないか?


「バッシングというものは、個々人の理不尽な嫌がらせを通じて表現される」ということがテーマなのかもしれない。
きっとその通りだろうと思う。
そうやって普遍化できるところがあるかもしれないし、そうすることで見えてくることもあるかもしれない。どんな事件であれ、容疑者の家族はきっとこういう目にあってると思うし。


けれど、やっぱし、そもそもそういう理不尽なイジワルをするその個々人が「自分は正義」とか「あいつに制裁をくわえてやる」と確信する考え方や文脈があるからこそ、「バッシング」になるわけでしょ?
その文脈が描かれてないってのは、ただの夢の国みたい、ただその夢が悪夢っていうだけで。イジワルの普遍化というだけでは、なんというか、、頭を使って考える余地がなくない?
だから、結局メッセージとして残るのは「良い子のみなさん、イジワルはいけません」。
、、ここで止まっていてはバッシングを「事故」や「災害」扱いするのと変わりない気がする。
それと、「ボランティア」も、政治や社会と関係ない「気持ちの問題」みたいだし。…そういう病気の人の話?


というわけで、この映画で想定されてるボランティア先の外国、つまり、
イジワル村では仲間ハズレになってる人がおためごかしにお菓子を持っていく(するとアリガタがられるという)、その想定上の国って、どんなん?と思いました。ひどくない?


(見てから時間が経ってるので、記憶も曖昧になってきましたが、この映画について感想を言おうと前のブログで宣言したのに、もはや、それすら忘れていました。こんな映画じゃなかったらごめんね。)
(あと、苗字をお母さんの旧姓に移して引っ越すとか、そういう手段はダメなのかな?って思いました。)