「イヤー・オブ・ミート」
- 作者: ルース・L.オゼキ,Ruth L. Ozeki,佐竹史子
- 出版社/メーカー: アーティストハウス
- 発売日: 1999/08/01
- メディア: 単行本
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アメリカと日本、テレビ番組の制作スタッフと主婦、別の土地で、違う暮らしをしている二人の女の生活が牛肉を通してつながる。
資本メディアと食品汚染という大きな問題(そしてグローバル"自由"経済の問題)をとりあげながら、二人の女の人生(加えて、牛肉宣伝番組のために取材した幾つかの家族)の葛藤と選択を描いていくこの小説は、
メロドラマ風でもあり、
政治的訴えでもある。
実際、わたしは教訓メロドラマとしてとても良い小説だと思った。読みやすいことも。
(わたしはアクセスしやすい小説は重要だと思う。この小説が読みやすい理由は、キャラクターが単純化されているせいだと思うのでちょっと残念だけれど。)
物語は、日本人とアメリカ人とのハーフであり、日本語も話すジェーン・タカギが日本向けの「アメリカ牛」紹介番組「マイ・アメリカン・ワイフ」の現地スタッフに選ばれるところから始まる。この番組は、毎週、アメリカの「健全な」家庭とその家庭の料理を 日本人に紹介するという主旨のものだが、スポンサーはアメリカ牛肉輸出協会ただ一つ。
この番組のために、ジェーンはアメリカ各地の様々な家族を取材するが、彼女の取り上げる家族は、日本のプロデューサーの「健全なアメリカ人」というイメージに沿わず、反感を買ってばかり。
「マイ・メキシカン・ワイフをとってんじゃないんだぞ」
「亭主が料理するシーンを撮りやがった!」
さらには、取材を続ける過程dジェーンは、食肉産業のホルモン剤汚染の実態(、、これすごく怖い)に気づき、やがて、スポンサーに反するのを承知で肉牛の飼育場と食肉処理場を営む家族を取材することにする。
一方、もう一つの舞台、東京ではこの番組プロデューサー・ウエノの妻アキコが、子供ができないことを夫に責められ、怯えるように暮らしている。彼女は食べた肉をこっそり吐き出し、生理もとまっている。
夫から「マイ・アメリカン・ワイフ」を主婦の視点から採点し、番組と同じ料理を作るよう指示されているが、これについても夫の気に入る感想を言えず咎められる。
そんなアキコが、「マイ・アフリカン・ワイフ」の視聴を通じて 自分とは違う世界を知り、
自分の人生、自分の欲望に気づいていく、「これまで偽りの人生を生きてきた」と。
「いま流している涙はジョン(夫)とはぜんぜん関係ない。(…)それはまた、積極的に
なにかを求めず、おびえるしか能のない自分を、ほんとうの愛を知らなかった自分を、
哀れに思う涙だった」
・・
物語は、アキコとジェーンという二人の生活が平行して進んでいくなかで、
(ジェーンは不正を暴く仲介者となり、アキコは「(夫ではなく)自分の幸せ」を求める主体になる。)
上のアキコの引用のようにありふれた感傷的な表現に加えて、食肉産業の情報と見解とが描き出されていく。
たとえば
屠畜場や、食肉ホルモン剤の被害の描写(ホントにこわい)
煽動的な文章
「知識に基づいて行動できないのならば、無知をよそおって生きていくしかない。かくして、
わたしたちはなるべく無知であるように努め、無知を全力をあげて賞賛すらしている。」
メロドラマとプロパガンダがうまく絡まっていて興味深く面白く読める。
もちろん、メロドラマとプロパガンダというまさにその点を批判している評もあるが、
小説のなかで「無知も選択」といったジェーンと同じく、わたしはどの小説も政治的で選択的情報供給をするものと考えている。
その意味で、この小説は読みやすく、メロドラマという感情移入を誘う描写に、食肉産業、メディア、人種、民族、家族、男/女関係に関する情報と主義主張が上手く入っているものだと思うし、その意見がわたしには合うので、読んでいてもちろん楽しかった。
ただ、、、、
これだけ興味深く描かれた小説なのに、予定調和的な結末になってしまっている点、
特に、日本人のアキコがアメリカに憧れるという、結局「自由な国」アメリカという安易で、そして問題あるイメージに戻ってしまうところが残念。日本で頑張って欲しかった。