「誰」が「誰」のように感じる(と言う)(ことができる)のか

ラルフ・ネイダーが
2004年の大統領選のときに南部の州で、Democratic Partyに妨害されたことに
触れ、「I felt like a nigger」と話したという。
(アフリカンアメリカンの投票を否定した法律に喩えて。)


これは「喩え」として妥当か。意見は二つに別れる。


ネイダーは適切だと言う。
ネイダーは、「第三党を妨害した選挙→マイノリティを差別する選挙」という文脈をみて、意識してわざと使った言葉で、撤回するつもりはないと言う。
  (ここでもう一つのポイントは、ネイダーという「マイノリティの味方」が
   「マイノリティの"敵"」に対して使ったということ。)


もう一つの意見
ネイダーはその言葉を使うべきでない。
アフリカン・アメリカンが知っているその言葉の意味を、
その言葉が振るう暴力を、(黒人でない)ネイダーは知らないのだから。
政治的宣伝のために使ったとしたら完全な失敗だ。
           


わたしは、後者の意見に賛成。


名称・呼称は、どれも本質のものではなく、ただのカテゴリである。
とはいえ、それは歴史のなかに、歴史的力関係のなかにある。


歴史を削ぎ落とした辞書はないと思うし、無機質的に抽出された意味(いったいそんなことができるのか)として引用できる言葉もない。つまり
「承認された名称」と「汚名」とを同じように扱うことはできない。とわたしは思う。


ある名称は、ある人々、立場、行為、感情を迫害し排除すべく形成されてきたものであり、
また/あるいは、そうした暴力と闘ってきた人々が奪い返した名称であり、あるいは廃止させた名称である。
その名称を割り当てられることのない人が、あるいはその名称の重圧にない人が
その名称を使うのは、ただの言語の使用・引用ではなく、「横取り」だと思う。


ということを踏まえたうえで。
言語の使用は、歴史的コンテキストのもとに引用されて意味をなし、その引用は同時にいつもヴァリーションを生みだす引用である。


だから、
その引用に関しての適切・不適切を「どのような経緯で、どのような効果のために、誰が決定しようとしているのか」ということを考えるのは、未来の言葉の使用の可能性に関して有益だと思う。