人前で泣いちゃう読書

国語の授業が始まろうとするとき、Aちゃんは突然手を挙げた。涙を流してしゃくり泣きながら。
「Aさん、どうしたの?」と心配そうに先生。


Aちゃんは泣きじゃくりながら、「いま、読んだ本が、すっごくいいから、みんなに、話したい」と言った。それまで黙って読書をしていたのだけど、ついに感動を抑えられなくて、涙が出てきて、猛烈にみんなにこの感動を伝えたいという衝動に駆られていたのだ。


「…なに???」
事態の掌握ができないわたしたち。


やっと先生が「、、、あ、、、、じゃあ、どうぞ。話してみて。」
というと、「みんなこっちむいて聞いて」(←要求までする)Aちゃんは立ち上がって吉本ばななのナントカって本を取り出し、登場人物を一人ひとりあげ、最初から最後までストーリーを説明し、誰のどこに感動したのか、涙を流しながら熱弁を振るった、、、。


最初はあっけにとられていたわたしたちも、やっと事態を飲み込めて
「どうして○○(登場人物)は……って言ったの?」
「わたしもそれ読んだけど、……はこうじゃなかった?」
「で、それは結局どうなったの?」
と質問やコメントをする輩も出てきた。


Aちゃんはそれに対して泣きながらせっせとコメントしていたけど、そうこうするうちに、だんだん泣きやんで冷静になっていった。最後に「そういうわけで、とにかく、すごいいいからみんなも読んで…」と、ちょっとしおらしくなって座った。


「、、じゃ、もういいかな?みんな。気が済んだかな?…そうだね、読書ってとっても大事な経験だと思うから、これからも読書をしましょう。」と、ものすごくテキトーにまとめた先生。(「気が済んだ?」って何よ、、確かに急に吉本ばななを熱く語れらても困るだろうけど、そして、確かにAちゃんも気が済んでたけど。)
嵐のような読書感想会がおわって、残りの時間は鴨長明方丈記』に戻った。 みんな「さっきのはなんだったんだろう…?」と少しだけ疑問に思いながら。



ウォークマンができたとき「公共の場に個室を作る」ってな言われ方があった。それまでは、家の外では、見知らぬ他人たちといろんな音を「共有」してたのに、イヤフォンをつけることで自分だけその場とは違う音を聞き、自分だけの空間を作り出せるのだと。
読書って、わりと一人でコッソリやる行為だから、外出中に、たとえば電車のなかで読書するのは、ウォークマンと似てると思う。自分だけ本という別の世界と対話するのだから。物語にのめりこんでいると、周りは徐々にフェイドアウトしてやがて存在しなくなる。だから、ふと気づいて目を上げたときに、「現実」という名の社会のなかに戻って、2駅乗り過ごしていたりするとビックリする。そればかりか、うっかり大感動して涙が出てきたりしたときに、ふと「現実」にかえり、その場には自分一人じゃないって気づくと大変にキマリが悪い。
だから、キマリ悪いどころか、みんなに感動を押し付け、、いや、感動を共有しようとしたAちゃんはすっごいなあと思った。泣くほどの思い入れを、人前であんな風に伸びやかに発表できるなんて、ホントすごい。
わたしはもっとイジイジしてる。



小学校4年のとき、「朝の学習」っていう時間があって、「朝のマラソン」の後、「朝の会」前の15分くらいの間に、漢字練習とか計算問題とかやらされてたんだけど、この日は国語の新しい単元「ごんぎつね」を読みなさいっていう課題だった。いつもみんなふざけながらやってるから、ときどき学級委員とかが「男子は静かにして!」とか言ってるのだけど、この日わたしはどういうわけか、言われるがままに「ごんぎつね」を読んでいた。
国語の教科書って、いっつも最後にかわいそうな話が載ってませんでしたか?どうしてだろ?毎年これでもか!ってくらい気の毒な話が載ってた気がするのですが。この話もそうでした。もう全然覚えてないのだけど、確か最後には可哀想なきつねが死んで、次の年にはその場所にキツネのかたちに花が咲きました。といった終わり方だった。最後までのめりこんで読んでいたわたしは、ごんぎつねが可哀想で可哀想で悲しくて、涙がボロボロ出てきてしまった。
そしたら、横の席にいた×××ブー(←あだ名)が、「どうしたの?!」とイノセントに大きな声で聞いてきた。×××ブーめ!いま思い返せば、オトナぶったコマッシャクレた感じの子です。その声で呼び起こされ、我に返って周りを見ると、ええ〜っ、誰も教科書読んでなかったんだー!みんなヘラヘラしてるのに、わたしだけ大泣き??と気づいたところへ、「ね、ね、どうしたの?具合悪いの?」とあくまでお節介な×××ブー、放っておいてくれません。今なら「『ごんぎつね』読んでれば泣いて当たり前だよ!」って言うところですが、そのときは、わたしはなんだかとっても恥ずかしくて決まり悪くて、頬に涙を伝わせながら「…頭が痛いの。」ってウソをついてしまいました。
「ええっ大丈夫?保健室行ったほうがいいよ。…保健がかり〜!」と大声を出す×××ブー。こんにゃろ!
「ううん、大丈夫。ちょっと痛かっただけ。」と必死で答えるわたし。泣くほど頭が痛いなんて、この年になってもないんだけど、とにかく放っておいて欲しかった。わたしはごんぎつねが悲しいだけで、いまは×××ブーたちの「現実」に巻き込まれる気分じゃない、、それなのに、、保健係りに連れられ、痛くもない頭を抱えて保健室に連行されたのでした。ええぃ、×××ブーめ!!(休み時間にケロッと忘れて遊んでたら「そういえば、頭痛くないの?」と×××ぶー。なかなか侮れない強敵であった。)



もう一つは中学のある日。わたしは教室の片隅で『罪と罰』を読んでいた。どう理解してたのか知らないけど、読んでるうちにもう何もかもに圧倒されて、思わず涙が出てきてしまった。いや、涙が出てきたなんてもんじゃなくて、号泣する勢いだった。さっそく隣の友だちが「どうしたの?」と聞いてくれた。 『ごんぎつね』で懲りたわたしは今度は正直に「本読んでたら感動しちゃって、、」としゃくりながら答えた。「そっか、ね、何の本?」「どんな話?」とクラスメートが集まってくる。どういう話も何も、言葉にならないけど、とにかくすごいんだってことを泣きながら訴えた。
「わたしもこないだ泣いた本があるよ」とか「わたしも今度その本読んでみるよ!」とかいろいろに声を掛けてくれる。それを聞いて「でも○ちゃん、罪と罰って全3巻もあるよ、、」とわたしの方がちょっと悩んだりしながらその場は過ぎていった。
次の休み時間、ちょっと離れた席のいつも静かなMちゃんが近寄ってきた。「…わたしも次はその本を読もうかな」って。 「うん…きっと感動するよ!」
と、このときは確かにすがすがしい友情なカンジで「Mちゃんが『罪と罰』を読む」という方向の会話だったはずなんですよ。それなのに、次の週に「読んでもいいよ」ってMちゃん、紙袋一杯に本を持ってきてくれた、、コバルト文庫30冊。(もちろん全部読みました、授業中に。…泣かずに済んでよかった。)

外出時には泣かないで済む本が無難だと思った。お互いのために。