選択に関する記事

ニューヨーク・タイムズに面白い記事が二つあった。(でも、どうして今ごろまた同じことを?という内容ではある)

一つは
Gender Pay Gap, Once Narrowing, Is Stuck in Place
男女の賃金格差が、まだ解消されたわけではないけれど、問題になって以来、少しずつ縮まってきた。
けれど最近は変化が乏しく、差が固定されてきている、
特に高収入の仕事で、という話。

このことの要因に関して二つの見解があるという、
1.相変わらず女だけが家事を強いられているから。 
2.女は男ほどお金を重要視しない、別のことに価値をおくから。ってことらしい。


でもこのどちらも、同じコインの表れかもしれないよ。高収入の仕事がないから、賃金以外のことに価値を置く、とか。家庭に入るだろうとみなされているから仕事が少なく、仕事が少ないから家庭に入ることを選択する率が高くなるとか。要するに、「選択」がどれだけ「主体的」にされるのかという問題だよね。
「人が主体的になれる」のは「選択枠のなかで選択するから」だと、そう考えるわたしは唯モノ主義なのでしょうか。

(ついでに、この記事の最後に、このての調査は「トップクラス」を対象にしていないけれど、もしも「トップクラス」を見れば、そこは男ばかりだともっともな指摘している。)



もう一つは、What’s Wrong With Cinderella?
プリンセス・グッズが最近の売り場を独占している傾向について、長ーい記事が載っている。
以前にguardianかなんかで「お姫さまモノを好む女子はDVに合いやすいかも」っていう記事を読んだ気がするけれど、今回はそういう議論ではなくて、


★お姫さまグッズは問題ではない/問題にすべきではない
   ・ただ好きなだけ、それが好み。
   ・プリンセスを否定することで、女であることや女らしさを見下すことになる?   
   ・「女だからドウコウ」という時代の押し付けではなく、プリンセスを含めて「好きなように選べる」時代になってる。第二次フェミニズムを経てやっとお姫さまモノ「すら」選んでよくなったのだと。
   ・お姫さま好きは一時的な熱のようなもので、やがては成長して巣立っていく。      


★お姫さまグッズは問題
   ・お姫さまグッズが売り場を圧倒的に独占しているということは、すでに「女の子ならこれを選べ」という命令になっている。
   ・「女の子ならこれを選べ」が「こういうイメージを内面化しろ」になる。
   ・「商品」の「(個々人の)好み」を作り出す力(←これはわたしが強調してるだけ)


こんなことを中心に議論している。しかも、ディズニーの販売戦略や6、70年代から現在までの社会情勢を解説しながらだから、部分的にとても面白いんだけど、とても長い。


とても長いので、わたしにはとてもカバーできない。そこで、わたしが面白いと思ったことを(記事の議論と併せて、、と思ったけれど、併せる力も時間もないので、)記事の議論には戻れない形で取り上げます。


まずは、この記事のなかで紹介されている絵本とそれに関する議論。いくらプリンセスものを問題視するといっても、同時に娘が極端になって独り寂しく暮らすのでは?という恐れを抱いていると告白して、↓この絵本を取り上げてそのての言説に注意を向けているところ。


The Paper Bag Princess(紙袋姫)という絵本が80年代に出たらしいが、これは、怪物に捕らわれた婚約者の王子様を、お姫様が救いに行くという話。数々の難関を乗り越えて、お姫さまは髪も服もボロボロ、紙袋をかぶってやっとのことで王子を救出するが、ここで救われた王子が姫に向ってとんでもないことを言う。「でも、そんな汚い格好じゃなくて、お姫さまらしい格好で戻ってきてよ」 
そこで、お姫さまは王子と別れ、幸せに暮らしましたとさ、ひとりきりでね。


…という話らしい。
そこでこの記事の筆者は言う、「でました、テルマ&ルイーズ。ひとたび道を外れたら、一生一人ぼっちか、おかしくなって崖から落ちていくって話」 つまり、お城で王子と暮らすか、独身を通すの二択しかないとは、どうなのか?
「従順と傲慢、ペチコートと紙袋との間に妥協点があるべきじゃないか?」と筆者は言う。


この部分、気持ちはわかるんだけれど、わたしはそれでもこの「二つの間の妥協点」という表現に問題を感じる。
「二つの間の中間」ですら、問題に思う。これは、セクシュアリティの話とかでも同じ。「人の好みはグラデーションで、同性が好きな度合いが強い人もいれば異性が好きな度合いが強い人もいるし、その中間にもいろいろいる」という説明があって、なんつーか、濃淡灰色部分も認めるという説得力のある適切な説明なのかもしれないけれど、それでも「両極と中間を決める」という方法はそれはそれで同時にある視点を標準化するものでもあるだろうに、そうした問題を見えなくしてしまうと思う。たとえば、「従順と傲慢」の間のグラデーションが想像できるのは、「無関心」とか「命令そのものが聞こえない」とかそういう状態を省いているからじゃないか?
それから、そもそもなんでその両極が極扱いになってるのかっていうところが問題にならなくなる。そういう問題をなおざりにしといて「妥協」するって、どうよ、と思うのである。

(疲れたので…次回につづく、、かもしれない)


もう一つは、「お姫さまグッズのすごいところは、あまりにあいまいにお姫さま感が作られているから、『お姫さま』と言う言葉は実際には何も意味していない」という指摘。

お姫さまと聞くとわたしは「シンデレラ」や「白雪姫」が思い浮かぶけど、これらは「よい奥さんになる」修行物語とも読める。イジワルな継母や姉に虐げられたシンデレラはもちろんのこと、白雪姫も小人の家で炊事洗濯のお嫁さん修行をつんで、そして王子と結婚するのだから。だからわたしは「お姫さま」っていうのは、きれいなイメージのもとでムニャムニャ、、と思っていたのだけれど、、、、。そうなのか、この記事によると最近の「お姫さま」っていうのは、何も意味しないのか、、。何も意味しない印は、好きなように使ってよい印だとしたら、誰がどう好きなように使うのか。
(これもまた読み直して考えてみよう、と今のところ思っています。)