なんでもふたつ

子供のころ、なぜか図書館へ行くのが流行った時期があります。わたしと友だちも何度も足を運んで子供コーナーの本を見てはあーでもないこーでもないと遊んでいました。
そんなある日、友だちが変な絵本を見つけてきました。それは「なんでもふたつさん」。
題名の変さからして恐るべきこの本は、それからずっと何年も何年もわたしを悩ませてきました。それが最近になってやっとその謎が解けたのです!


「なんでもふたつさん」がどんな話かというと、、、なんでも二つ持っていないと気がすまない人のお話で、背広も二着、帽子も二つ身に付けて、もちろんカバンも二つ持っている。家も二つもっているし、犬も2匹飼っています(たぶん)。おかしな人ですネ☆、といった感じで進んでいく物語です。


忘れっぽいわたしといえども、このへんまでは割とキチンと記憶していました。ところが、どういうわけか、最後の部分をものすごく勘違いして記憶していたのです。
本当の物語はこうです。なんでもふたつさんには妻が一人、子が一人いるのですが、ある日、ひょんなことから、隣に住む、夫がいなくて困っている女の人とその子供(←なぜ困っているのか不明ですが、おそらく性差別な土地なんでしょう)とも一緒に暮らすことになるのです。こうしてめでたく、妻と子も二人ずつ持つことになって終わる、と、こういう話なのです。


それなのに、わたしはどういうわけかこの部分をすっぽり忘れていて、全く違う風に覚えていました。わたしは、物語の最後で「なんでもふたつさんは実は自分も二人なのです」と明かされて終わると思い込んでいたのです。怖いですねぇ。それで、この話を思い出すたびに、なんでも2つさんが二人いるってことは、そのもう一人も二つづつ持ってるし、もう一人にももう一人いるから、となると、なんでもふたつさんはなんでも四つさんになっちゃって、それぞれがまた二つさんだと思うと、なんでも二つさんはなんでも八つさんになっちゃって、、天文学的になんでもふたつさんになってしまうよ!!だいいち、なんでも4つ、8つ、、とあったら、なんでも二つさんじゃないんじゃないの!と、大混乱になっていました。


子供の頃から今までに30回思い出したとして、そのたびに10分考えたとすると、今までの人生で約5時間わたしの頭のなかがビッシリなんでもふたつさんで一杯だったことになります。わたしの能力では処理しきれい問題なので、頭のなかがパニックです。理解できない恐怖の図書。


、、そんななんでもふたつさんですが、先日久しぶりに図書館に行き、ふとこの本を思い出し、何年ぶりかに現物を見つけたのです。そしてめでたく自分の思い違いに気づくことができたのです。これ以上悩まずに済みホッとしました、と同時に賢くなったわたしはさらにこの本をよく理解できるようになりました。


なんでもふたつさんは、持ち物を二つずつ持っている主体なのです。カバンや洋服や家、妻と子は持ち物。なんでもふたつさんはそれらの持ち主であり、あくまでも持ち物を持つ主体として、ルールを行使する者として、中心的な揺るぎない地位にあるのです。モダニズム的ともいえますね。
それをわたしみたいに、なんでもふたつさん自身にも、「なんでも二つルール」をあてはめ、項目の一つとして数えてしまうと、このルールが誰のために誰によって遂行されるのかもわからなくなってしまう。ルールの主体がわからなくなってこんがらがってしまうのです。ポストナントカっぽいですね。


とはいうものの、やっぱりわたしヴァージョンの方がおもしろい気がします。それに、妻と子が持ち物っていうのが時代遅れなように、主体が揺るぎないなんていうのも時代遅れじゃないかしらん。だって、もはやわたしたちはルールの外部に位置してルールを持っている主体なのではなく、ルールのおかげで主体という(ルールを使う)項目になれる存在なのだから。ルールってのは言語とか法と言い換えてもいいかもしれません。
まあどっちにしろ、妻や子はなんでもふたつさんに二人ずついる所有物という扱いなので主体性ゼロのままですけどね。