給食メニューの選択は?

少し前にkmizusawaさんのところで埼玉県にある町の町議会で「学校に弁当の日を作れ」という議論があったことを知りました。学校給食に反対する議員が「現在の社会状況で子が親を殺すという悲しい事態に責任を感じて提案」しているそうです。この方は弁当は親子の絆を深め、健全な子供を育てるという、「出ました!」といいたくなるような(家父長主義に根付いた)理由とともに、このようなことを言っています。

 食べる権利は人間の生きる権利であり、何人にも干渉されるものではなりません。そこには自由選択と自己責任があり、ダイエットするか、太って物をたくさん食べるかは、個人に全く任されたものであります。

「食べる権利は人間の生きる権利」というところから、「個人に全く任されたもの」という結論への道筋がわたしには理解できません。だって、食べる権利があるのなら、経済的に食べるものを得るのが難しい人は、「『食べる権利』を奪われた人」ではないのだろうかし?それなのに、最初に声高に言われていた「権利」は突然忘れ去られて、「自己責任」という言葉が前面に出てきている。つまり結局は、経済的に食べるのが困難な状況にいるのは、社会とも権利とも関係なく「ただひたすら個人の責任」という、資本主義格差自由教の教義につながっているように思えます。この方は、これをわかりやすくおっしゃっています。

BMWを持とうが、軽四輪にしようが、個々人の選択自由があり、それぞれの生活レベルなり価値観なりに基づき選択するもので、経済的背景の理由により第三者である学校がこれを補完する義務はありません。

「生活レベルに基づく選択」が「(学校給食からの)自由」ということなのでしょうか?学校給食がなくなり、お昼ごはんを食べらる子と食べれない子が出てくるとしたら、それは「自由」ゆえの「選択」ということになるのでしょうか?、、、どうやらそうらしいですね。

で、肝心の、弁当における「個人の自由」と「自己責任」とは何かというと、(引用した文はこの順序であらわれてはいません)

金がなくても知恵を出して、子供たちの幸せを、将来を考えるべき問題であります。
弁当をつくれない理由が、経済的であろうと、女性の社会進出による時間不足が原因であろうと、これらはすべて個々人にかかわるもので、第三者には責任はないものであります。
自分の腹を痛めた子供に対し母親がどう対応するかは、母親の責任であります。

というわけで、子供の「自己責任」は実は「母親の責任」らしいです。「母親が弁当作れ!」「貧乏でも母親なら自分でなんとかしろ」という、家父長制まるだしの主張であります。それにしても「女性の社会進出による時間不足が原因」って、、よくこんなことを、であります。こんなことを言われると、
やい、なにもかも保守ジジイの社会残留による平等不足が原因なんだよ!」と言いたくもなりますが、
とはいえ、このような子供や家族に絡んだ議論の良い点といえば、家父長主義性差別人間や今流行のネオ・コンさんを簡単に見分けることができるということ、であります。


、、このような「給食か弁当か」議論でありますが、実は今日はこのことを話題にするのがわたしの目的ではないのです。わたしとしてはそんな恐ろしい二択議論をしてないで、「給食のメニューに選択の余地を作ること」を議論して欲しいと主張したいのです。(給食反対の理由のひとつが「食べることに個人の自由を」ということなので、メニューが選べれば反対の人にとっても改善、、ではないでしょうか?)わたしは給食とは無縁の生活をしているので、余計なお世話かもしれませんが、ごめんなさいまし。


食は文化といいますが、食は国家事業でもあり、また食は食産業でもあります。(だから学校給食の民間委託には誰かさんの利潤が相当絡んでるという気がわたしはするのですが。)
給食となると、みんなで同じものを食べて同じ文化を共有する、ということにもつながっていると思うのですが、、みんなで同じ「なに」を食べることになるのかってところをもう少し明確にして欲しいと思います。


アレルギーのある人には選択の必要があるのは当然だと思いますが、それだけでなく主義主張からの選択があっても良いのではないかしら、、と思うのです。可能なら、おかずに関するインフォームドコンセントみたいなもんがあってもいいんではないでしょうか。


たとえば、クジラ肉。
給食に「クジラ肉」が復活していると聞きますが、どうしてでしょう。他の肉が危険だから?輸入に頼らずに済むから?流通を維持しようとしているの?、、事情はどうであれクジラ肉を給食に出すことで「クジラ食文化」が引き継がれていくと思います。そしてこれは、子供のころからクジラを食べさせ、友だちと一緒に食べるという楽しい経験を通じて、「捕鯨反対」への抵抗勢力を育成しているとも考えられないでしょうか?(わたしが捕鯨反対かというと、、心情的には大反対ですが。クジラやイルカを捕獲するのは、漁場があらされるからだと聞いたことがあります。それから捕鯨反対の非難のうちにも別の利害が絡んでいるのでは?という気もします、、商業主義被害妄想かもしれませんが。実際はどうなのでしょう?そもそも日本が捕鯨をやめるわけにはいかない理由があるのでしょうか?)
とにかく、わたしも小学校の給食にクジラ肉が出で、おいしいと思って食べていましたが、考えてみれば「食べない」という選択はなかった気がします。これでは「いつの間にか、クジラ食民族に育てられてた!!」と、後でショックを受ける人もいるかもしれません。


このへんも、クジラ肉だけに限らず、肉食でよいのか、魚食にするのか、などを選べるような情報があるといいんではないでしょうか。だって、主義主張問題だけでなく、最近はどのお肉にも安全面の不安があるでしょ?


それからエビ!わたしが小学校のときに給食に出た記憶はないのですが、でも現在では何にでも入ってるのがエビ、油断なりません。わたしはエビが嫌いではありませんでしたが、最近大嫌いになりました。エビのことを考えただけで気持ち悪くなります。エビ産業がどんなに恐ろしいかを聞いたからです。スマトラ津波だっても、エビ産業が極悪でなければ違っていたかもしれない、それなのに、あの津波のあと、多くの人がなくなり、また家や家族をなくしたあの最中に、コイズミ政権はエビ供給が確保できるかの調査団を速攻で送ったとか。恐ろしきエビ産業。(というわけで、今度『エビと日本人』を読もうと思っています。)
もしもエビ大量輸入の一環に学校給食が組み込まれているとしたら、、。というわけで、輸入エビが学校給食に出ていないことを願います。


給食反対の怖い人も「食べることの自由選択を奪ってはならない」とおっしゃってますが、このあたりに関して、だから学校給食はやめろ!ではなく、学校給食の充実という面から考えて欲しいと思います。


日本は食糧自給率がものすご〜く低くて、ものすご〜く問題だと思うのですが、この町の給食支持の議員さんが言うように、給食が自給率向上に役立つとしたら、みんな色々と食べられるし食糧自給率も上がるという一石二鳥な感じですが、
さらに、安全な食材で作られる料理で、しかも食材に関する情報があり、選択の余地があればもっと良いのにと思うのであります。