書評の感想

Norah Vincent という人のSelf-Made Man: One Woman’s Journey Into Manhood and Back Againという本が出版されたらしい。「Self-made man」といえば、「自力で成功した男」のことで、サクセスストーリーに出てくるような人のことを言うのだけれど、この本では、この言葉をモジって、というか文字通りに使って「自分で作った男」という意味をもたせている。これは一人の女のジャーナリストが、男装して男になって暮らした手記なのである、、いや、なのであろう。

「なのであろう」と推測にしたのは、わたしはこの本を読んでいないからです。でも書評は読みました。それも一本ではなく、二本の書評を読んだところです。それで、書評の対象になっている当の本は読まずに、この二つの書評を比べて様子を探ってみようと思う


一つは、NYタイムズのDavid Kamp という人の書評(以下タイムズ)
もう一つは、サロン.コムのAndrew O’Hehirの書評 (以下サロン)サロンの書評はNYタイムズの2.5倍の長さなので、突っ込み度合いも違うっつえば違うのですが、はっきり言ってサロンの方は論旨が曖昧で何が言いたいのかわたしにはわからない。だから、こんな風に読んだのは、わたしの文責というか功績ですので、まあ大目に見て下さい。


まずこの本について紹介すると、著者のヴィンセントは、髪型を変え、スポーツブラで胸を平たくして、スポーツジャケットを着、専門家のもとで声の出し方をトレーニングして、「ネッド」という男になる。ネッドは、配管工や修理工たちのボーリング・サークルに入ったり、訪問販売のセールスマンになったり、カトリック修道院からストリップ・クラブ、男の意識向上集会へと顔を出していく。女とデートにも出かけている。こうした様々な経験が書かれたのがこの本なのだそうだ。(ここで名前を整理すると、「ヴィンセント」というのは本の著者のノラ・ヴィンセントのこと、「ネッド」というのはヴィンセントが男装したときの名前です。)


たとえば「女」であるときに(他の男から)受ける視線と、「男」であるときに(他の男から)受ける視線の違いついてこのように述べている。
男装して初めてニューヨークのイーストビレッジを歩いたとき、女だということがバレないばかりか、全然見られもしないことに気づいた。こうした視線(がないこと)に気づいてヴィンセントはこう書いている。「女はこういった通りを誰にも気づかれずに歩くことはありません。可愛かろうとなかろうと、その場に男の人がいれば、性的関心の対象、あるいはそこまでいかないまでもそういった視線で見られるものです。…反対に男同士では、目が合うと、すぐに逸らして二度と見返したりしません。この違いには驚きました。男同士ではジッと見たりしないという敬意の表し方をしているなんて。」


と、こんな感じらしい。

同じ本を対象にしているのだけれど、サロンとタイムズとではだいぶ違う風に理解しているように思える。タイムズは「いやー、新鮮で面白かったよ」といった紹介をしているが、サロンの紹介では見出しに「男であることを探った挙句に、精神病院入りした」とあるように、病んだ作者のトラウマチックな経験が書かれているような印象があるのです。わたしは先にタイムズの評を読んでいたので、「あら、そんな本なの?」と違和感を感じました。同じ本を読んでるのに、この違いは何だろう、、。


本を読まないままに考えてみることにしたのだけれど、思うにそれは、ヴィンセントの(あるいは「男」「女」「人間」の)「真の姿」とは何かということに関しての、それぞれの批評家の見解の違いから出ているように思える。「それぞれ違う」といっても、タイムズは「ヴィンセント個人の問題」や「主観」といったことを全然気にしていなくて、サロンの方はものすごく問題にして病気扱いしているという違いなのですが、それをジロジロ見直してみると、ジェンダーを仮面だとか選べる役割としてだけ捉える場合に陥りやすい問題が見えてくる、かもしれない。



どちらの批評家もヴィンセントはレズビアン(ブッチ寄りの?)ということを指摘しているのだけれど、、

タイムズ版では、「『男っぽい女』だってことがヴィンセントの変身を容易にしているかもしれなが、しかしネッドとしての冒険が始まると、レズビアン的な観点は消えていく」と言い、そしてこう続ける。「この本の最も良い点は、なんらかの仮説や前提にたっていないところだ。確かに、ヴィンセントが女だからこそ、新しい視線で男の行動に対する観察ができたといえる。…しかし、ここには男装した女スパイが得た侵入ルポ的な体験談ではなく、こうした前提を超えて、たいていのジャーナリストや作家が見落としているような、男のあまりかっこよくない境遇についての、純粋に面白い観察が表れるときがある。それがこの本の最も面白い部分である。」


サロン版では、こんな風な納得をしてはいない。レズビアンかどうかは関係なくなってきた、というタイムズとは違って、サロンではレズビアンであるということを隠しすぎているとケチをつけているのだ。その話をする前に、まずタイムズとは全然違う見解をしているところを挙げてみると

「ヴィンセントはジェンダーに関する一般化を避けるべく冒頭でこのように断わっている。『これはわたしの見解、一人の男のおおよその生活を女の目で見たものであって、アメリカ全体の男性性といった、膨大で多種多様な領域への案内書ではない』と、宣言した舌の根も乾かぬうちに、ヴィンセントはこの宣言を放り捨て、「男らしさといったものは、一人一人の男にのしかかった重い神話」だと言っている」
つまり、ヴィンセントが結局、案内書のように「男というもの」を一般化していると指摘しているのだ。

「それどころか」とサロンは続けて、「ヴィンセントは最初の『わたし個人の見解』という見方を忘れ果てて、『わたしのジェンダーは脳にルーツがあるもの、たぶん生化学的なもので、わたしの自己イメージのルーツに近い。人種や階級や宗教、国籍といったものよりもずっとずっと近いもので、これらと比べることは不可能なほどだ。』さらには、人間というものはなく、『あるのは男の人間と女の人間という、全然別のグループだけ。』と主張している。」と指摘する。(というか、わたしとしては「男らしさが神話」だとしたら、「脳にルーツのあるジェンダー」ってどんなもの?って疑問に思うのだけれど。それに階級や人種要素とジェンダー要素をこんなにすんなり分類できているのにも疑問を感じる。)


タイムズ版が「偏ってない」とか「純粋に」面白いと言ってるのは、能天気にジェンダーを捉えているからに思える。男や女(の視点)を自由自在に取り外しができる仮面とみなすことで、ヴィンセントの話を理解しているらしいのだ。「取り外し可能な仮面だとしたら、それを取り外したあとには何があるのか?」「仮面をつけるという行為をする仮面前の人ってなんなの?」という疑問も感じないらしく、いたって能天気なので、男世界を覗いた女の話を超えて、「ただ単に面白い」視線として読んでいるのだ。


サロンが違っているの、「ただ単に」とは微塵も考えておらず、反対にこの本は作者の思惑がはなはだしいと考えているところだ。

「これ(ヴィンセントのジェンダー観)は、政治的な意見あるいは主義に基づいた前提以外の何物でもないだろう」とサロン。でも、サロンによれば、この主義に基づくような前提は、ヴィンセントが意図して主張したかったことではなく、別のことを隠すための隠れ蓑である、らしい。ヴィンセントが「やらない」と宣言したはずのジェンダー論を展開してしまっている理由を、サロンは(政治的なスタンスや主張ではなく)ヴィンセント個人の問題として捉えているのだ。ヴィンセントは、自分個人の問題(あるいは「本当の自分」)を隠したいあまり、「ネッドとしての自分が体験したつらい経験を、自分とは切り離し、非人格化して一般化してしている」というのである。
ヴィンセントの本では「わたし/ネッドは……である。」「わたし/ネッドは……と思った」と書くべきところを、「男は……である」「男は……と思うものだ」としているということだろうか。こうやって男というものを一般化して、その一般化に陰れるかのように、ヴィンセントは自分自身の問題の言い訳をしている、とサロンではそんなことを指摘しているのだろう。

サロンは言う「ヴィンセントは『男でいることは大変だ』という。これは(自分の経験を一般化して)『男性性の理想に沿うように生きるのは大変だ』という意味で言っているのだろう。だけれど、わたしにはこのセリフは、彼女自身は認めていないけれど本当は『ノラにとってネッドになることが大変だった』という意味なのではないかという気がする。男の特権や自由といわれるようなものが、男のフリをすることでは得られなかったということ、そしてそれは彼女にとってかなり期待はずれだったのだ、と思えるのだ。」 サロンの書評では、このせいでヴィンセントは「自殺願望傾向あり」と診断されて精神病院行きになった、と仄めかされている。つまりサロンは、ヴィンセントの話を、男になろうとして失望した話として捉え、さらに、彼女の神経衰弱はその失望の結果だとして、ヴィンセントはそれを隠して男性性の問題に差し替えているとして、ヴィンセントの自己否定の病理として読んでいるらしいのだ。

別のところでも、ヴィンセントが自分の知っているインテリ界ではなく、ストレート男だらけの世界や肉体労働者仲間に入ることで、そこでの自分の体験と「本当の自分」との乖離を正当化している、とまでは言っていないのだけれど、そう指摘していると読むと意味が通じる。もしも人文科系の都会的の男やゲイの男になろうとすれば、ヴィンセントが思っているほどに男になるのもジェンダー役割は固定的でもないだろう。それなのにそうなるのを避けているのは、自分の問題に近づくからではないか?、ということらしい。


サロンの指摘をまとめると、ヴィンセントは男のふりをして報告するジャーナリストのはずだったのに、自分の問題に絡めとられてしまってどうにもならなくなったうえに、その彼女個人の問題をジェンダー分析として粉飾している、ということらしい。侵入先を含めてその粉飾の仕方が、ジェンダーに関してのヴィンセントの固定的な見方に基づいており(しかも、サロンの著者(男/父/息子/元少年としての?)の経験とは違うものなので)ますます信用ならないと考えている、ようだ。


で、サロン版がそれほど気にしている/ヴィンセントが粉飾してまでして隠したがっている「本当の自分の問題」とは何か。これが実は、「ヴィンセントは、自分自身に関する情報については自信を持っていないよう」で、だから「あまり信用できる報告者には思えない。」とまで言っているのに、その「本当の姿」を何だと思っているのかとなると、全然はっきりしない。

「ヴィンセントにはもちろん自分のプライバシーを守る権利がある」といいながらも、「でも、ヴィンセントの記述には、ジェンダーを取り替えている人の話に関連性のありそうな何か欠けている」として、「彼女は自分の過去のヘテロ体験をどう思っているのか?自分がレズビアンだと昔から知っていたのか?、、ストレートの友だちがいるのか?いつもはレズビアン/ゲイ・コミュニティに暮らしているのか?」なんて質問を並べている。どうやらサロン版では、ヴィンセントが隠している「本当の姿(?)」とはセクシュアリティに関係している、と思っているらしい。らしい、のだけれど、わからない。というのもサロンでは続けてこういっている。「ヴィンセントがもっとも良いことを書いているのは、彼女が自分自身について明らかにしているところだ。とはいってもそれは彼女の性生活についてである必要はなくて、、」として、ボーリング・サークルのことを挙げている。サークルでの友情みたいなのは納得できるというのだが、でも、ここでヴィンセントが自分の何を明らかにしているのか、この書評からはわからない。、、、ボーリングが下手ということ、だろうか?


ここでタイムズに戻ってみると、能天気なタイムズも(問題にしていないだけで)、ジェンダーといったときに選択的に取り外せる「仮面」があると前提にしているのがわかる。「レズビアン的な観点が失われて」というのもそうだし、「女スパイ侵入ルポを超えて、ただ単にsimplyに面白い観察」というのもそう。最後の結論には、もろにそれが出ている。

「ヴィンセントのもっとも大きな問題点は、ロバート・ブライの『アイアンジョンの魂』にはじまった「メンズ・ムーブメント」に敬意を払いすぎるところだ」(ちなみにアマゾン.コムの紹介によると『アイアンジョン』とは「"女が強い時代"のいま、父親と息子のための「男の生き方」処方箋。グリム童話『鉄のハンス』(アイアン・ジョン)に秘められた男が男になるために、学ぶべきこと。ニューヨーク・タイムズのベストセラー・リストに1年以上載り続けた超ロングセラー。全米の男女間に一大論争を巻き起こした「男の本」。」)
アイアン・ジョンに賛同するヴィンセントは、「わたしが男の世界で通用したのは、わたしの仮面が本物そっくりだったからではなく、男の世界が仮面の世界だからです。…男の自助グループのなかでのみ、彼らの仮面が外され、実態がさらされるのを見ることができました。」と言っている、とタイムズはいう。(これまた、ヴィンセントに、仮面が外されたら何があるの?と聞きたくなるうえに、ジェンダーは脳にルーツがあるって言ったけど、そんじゃ「仮面」というのは何のことなのか?とわけがわからなくなるし、こうなるとジェンダーなんて言葉どうでもいいやって気にもなるのだけれど、タイムズの評はこれには触れずに、)そして、アイアン・ジョンっぷりに辟易してこう言っている。
「200ページ読んだ挙句に、この妄想のようなたわごとではちょっとガッカリである。しかし、この結論を抜かせば、大胆でとても面白い内容なので、わたしも批評家のマスクを外して、1ページ目から目が離せなくなった無精ひげの男性読者である姿をさらさねばなるまい。」


というわけなので、タイムズとしても、レズビアン、女スパイ・ルポ、批評家という視点は取り外し可能なもので、それを取り外した後には、simplyに面白いナニカや無精ひげの男がいることになる。(これは、ヴィンセント自身にも言えると思う。「男の仮面舞踏会でのみ、男は男らしさという仮面を外すことができる」というのは、「男らしさ」とは外からの要請によって身に帯びさせる対外的な性質のものだという意味なのだろう。だけれど、その男らしさの仮面を外したあとにはナニがあるのだろうか?)


サロンと比べてタイムズ評の方が伸び伸びとしているのは、タイムズは仮面の取り外しについて疑問すら抱かないまま、あっさりと仮面を認めている(これも勝手に決め付けているのだけれど)からだと思う。サロンがややこしいうえに、何言ってるかわからないのは、仮面として見なす部分を明らかにしないままに、真実の姿を想定して要求しているからだと思う。


以上
読み込む部分と態度は違っているのだが、サロンもタイムズも(おそらくヴィンセントも)、ジェンダー仮面(とジェンダー理論武装?)を外した「本来のわたし」があるようにみなしている。その「本当のわたし」を見せるために/隠すために、仮面を削ぎ落としたり、また付け替えてみたり、外して検討したりしているように読める。


だけれど、つけたり削ぎ落としたりするものが、仮にジェンダー仮面だとしても、それを判断する基準は、ジェンダーを認識できるもの、ジェンダーを知っているものでなければならない。「それ(本当の姿?)(人?男?女?)」が何者なのかを知るには、ジェンダー概念なしにはできないようだから、ジェンダー仮面を外そうとするその認識の仕方も、ジェンダーに寄らなければならないし、外した中身(仮にあるとしたら)を理解するにもジェンダーに寄らなければならない、サロンがヴィンセントの本当の姿をレズビアンであることと絡めているように。ことほどさようにジェンダーからは抜けられないのだとわたしは思う。サロンが「ヴィンセントは真実を明かしていない」と批判しながらも、何が真実なのかをいえないのは、ジェンダー、というか、女/男らしさは「仮面である」という前提においているので、サロンもタイムズも(ヴィンセントも)その仮面の下にある「素顔」を考慮にいれなければならないのだけれど、「女/男らしさ」を外したという前提においた手前、再び「らしさ」を持ち出して語ることができず、そのせいで矛盾を抱えてどこにもたどり着かない分裂した文になっているのではないだろうか。


そこでもう一点、ヴィンセントは悩みを隠している、とサロンは指摘しているのだけど、「男っぽいと言ってもいいようなモードで悩みを(半分皮肉な口調で)話している」とも言っている。「モード」というのはいいキーワードだと思う。ジェンダーというものが、ナニカの登場を可能にしたり制限しているモードだとしたら、サロンが仄めかしているようにヴィンセントは男世界にいられなくて病院行きになったという「原因→結果」の関係ではなく、ヴィンセントの問題が、(男/または女のものと言われている)なんらかのモードによって「『問題』として認識される行動/性質/症状」として引き出されたのだろう。(「引き出された」と書くと、引き出される前にしまっておかれていた(原・問題)があるような言い方になってしまうのだけれど、本当は「引き出されることによって存在するようになる」と言いたいのだけれど、語彙も文章力もなくてできないのです。)ヴィンセントが抱えた問題は、どちらかのジェンダーに馴染めなかったせいではなくて、ジェンダー分けされたなんらかのモードという乗り物があったために、特定の行動/症状となって出現してきたものだという気がする。ジェンダーは悩みを隠したり可能性を秘めたりする「原因」なのではなくて、悩みや可能性や何やかにやができると同時にそれを判断する根拠としても機能する媒体・文法・モード・乗り物なのだと思うのです。


というわけで、ジェンダーは、男らしさ女らしさといった性質?役割?を振り分けたものというだけではなくて、認識する根拠にして道具にして作用、そして存在の仕方・モード・文法なのだと思う。だから仮面のようには選んでつけたり捨てたりできない。そういうことができればいいのにとは思うけれど、そうやってつまみだせるようなアイテムではないように思える。


サロンでは、「ヴィンセントのこの本は、苦痛に満ちているし、非常にひきつけられると同時に不満も感じるものであるが、男女の境界の浸透性を(あるいはおそらく境界のあり方すら)テストしようとしているのだ」と言っているが、まったくその通りだと思う。ジェンダーが境界識別の作用であると同時にその根拠でもあるからには、このテストはいつもいつも苦痛に満ちていると同時に面白くもあり腹立たしいものでもあるのだとわたしは思う。といってもみなが同じように苦痛に満ちてるのではないのでこうやって一般化するのはいけないのだけれど、。差異化するのがジェンダーなのだし。しかし、ジェンダーなしの状態は認識不可能といったからといって、別にジェンダーは不変だとか運命だとか思っているわけではない。それどころか、ジェンダーは規範的な言説の作用であると同時に根拠として機能する窮屈な識別ツールで、どうしても使われなきゃならないとされている、だからこそ、使われるたびに、いっつも無理を抱えたり、無理強いしたり、はみ出したり、変な解釈を生み出したりしている、と思う。だから、変わっていくし変えられるし、いまみたいに中心的な地位をもたせないでいくことができると思うのです。

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ということで、こんなにアホな長編ブログになったのは、わたしのせいじゃなくてこの本と書評のせいに違いありません、、。わたしとしては「階級とも人種、国籍とも関係ないジェンダー」という概念は大いに疑問だし、制度的経済的な不平等を再生産している仕組みと関係ないかのような扱いにも疑問を感じます。あと、ヴィンセントも驚いたと書いてあるしサロンもタイムズも記しているけれど、労働者階級の白人の男が特別にレイシストでも女差別でもホモフォビックでもないってことに驚いていることに驚いたし、同時に、女差別でもホモフォビックでもないというのを何を根拠にしているのかも知りたいと思いました。それくらいの興味がある程度で、この二つの書評だけですでに食傷気味です、、。というか、これなんの本だろう?男女は違うよね!って主張する本なのかしらね。、、なんらかの異化効果はあると思うのだけれど。


で、話は変わりますが、エディ・マーフィーがミスター・ホワイトという白人になりすまして白人世界を経験するというコメディがあるんですが、わたしはこれが大好き。白人として町を歩くと、(白人の)商店ではタダで商品をくれるし、白人の銀行員は保証人も担保もなくお金を貸してくれる、というかお金をタダでくれるし、バスでは黒人客が降りて白人客だけになるとパーディが始まったりして、白人は陰で白人同士優遇しあっているというもの。白人のフリをするときの話し方や歩き方にも笑っちゃった。