胡同

今朝、出掛けにテレビをつけたら中国の「胡同(フートン)」のことをやっていました。
胡同とは何かというと、、なんだろ?、、、古い町のこと、、だと思う。古い町といっても、たくさん人が住んでいる現役の町です。
オリンピック開催に向けて、北京では工事や建築がじゃんじゃん進められていて、古い建物群「胡同」がどんどん壊されているそうです。テレビでは、消滅の危機にある胡同を写真に残しておこうとする写真家のことを紹介していました。日本の下町風景みたいなもんでしょうか。


確かに北京は改修工事や建築中の建物がたくさんあった気がします。オリンピックだけが理由ではないだろうけれど、でも「開発」の契機になっているとは思う、、、、オリンピックなどの大資本イベントはいっつも開催地の貧乏人を追い出す祭典でもあるわけで、そのへんの問題を追求しないのはどうかと強く思いますね。


、、なんてオリンピックの悪口を言いつつフートンに話を戻しますが、わたしもフートン見てきました!紫禁城を出てホヤーッと歩いていたら、見るからに「あんたインチキでしょ」って雰囲気のおじさんが近づいてきて「人力車のフートン案内」を勧めてきました。古い町の案内とか言って、、なにを騙す気かしら?と怪しんでいると、値段表を見せてきて、一人60元(約900円)だと言います。二人で120元。フートンが何かもわからないけど、これはどうなの?という値段です。中国ではなんでも値切れと言うから、半額になるか聞いてみようと交渉を始めました。
で、交渉の結果、半額どころか二人で45元になったのです。もともといくらを想定していたのかわからないけど、それなら!とすっかり乗せられて、乗ることにしました。なんといっても、人生行き当たりばったり、下調べもしない計画性のない旅、次に予定があるわけでもなく身軽だったのです。


これがすっごく楽しかった!おじさんの自転車さばきは達人級で、どんな道でもスイスイと、デコボコ道は衝動が最小になるように、車と自転車と人とが(わたし目には)殺人的に入り乱れる大通りでも、誰よりも独自のルールですり抜け、「今の信号はオレが変えたのさ!」とどうやら魔法まで使って運転していました。乗って良かったです!
(ところで、そこには人力車がたくさんあったけれど、このおじさんはもぐりの商売なのか、まずわたしたちを残してどこかへ自転車を取りに行き、胡同を走ってるときにはすれ違う知人に「おーっす、そっちに警察いたか?」と聞いていました。フーテンの寅さんならぬフートンの寅さんでありました。)


で、肝心の胡同ですが、古い町並みに洗濯物が干してあったりお買い物のおばちゃんが歩いていたり日常的な日常生活が繰り広がっている様子でした(でもわたし目には、トイレや水周りや電気的には不便そう。)おじさんは良いガイドでもあって、(ウソかホントか知らないけれど)運転しながら建物の説明をよくしてくれて、覚えてないけど、その説明も(連れの通訳を通じてですが)楽しかったです。覚えていないわけは、そのときのわたしは「だいいちフートンって何なの?」ってことからしてわかっていなかったからでしょう。「古い町」ってことは聞きました、けど、どういう歴史があって、どういう状況におかれている町なのかってことがわからなかったので(これもおじさんが説明したかもしれないけど)、何を聞いてもピンと来なかったのです。予習って大事ですね!


そんな理解に欠けるわたしたちでしたが、おじさんは途中で突然わたしたちを降ろし、ひとんちの勝手口(?)に入りこんで「ほらね!」って感じで電気メーター群を見せてくれました。言葉がわからないわたしにはおじさんが何故に突然電気メーターを自慢し始めたのか大変不思議でしたが、、、「この建物は昔はナントカっていう有名な金持ちが住んでいた建物だけど、今では全然関係ない金持ちじゃない人たちが何家族も住んでいる」ということを見せるため(らしいです。たぶん、きっと。)


このおかげで、胡同でもっとも印象に残ってるのは人んちの勝手口に並ぶ電気メーターになってしまいました。


(町並みを撮ろうにもシャッターチャンスを逃しっぱなしで、結局撮った写真にはフートン外の自動車修理店とおじさんの背中だけが映っていました、、、。)


こんなダメっぷりの観光ですが、でもおかげで、フートンは何より人が生活している場所だということを垣間見ることができました。(だからおじさんの人力車で「観光」してる自分たちも、人の生活の場に入り込んでる部外者なんだって悟りました。)
もしもこれを壊すのなら、その人たちはどこへ住むのでしょう?代わりに建てられる高層マンションでしょうか。誰の希望で壊されているのでしょう?住人の希望かな?(、、水周り悪そうだしね。)それとも土地再利用社?
誰の都合によって/誰の都合を犠牲にして、どうやって町が変わるのかっていうことを考えると、なくなるものを嘆いたり、新しいものを歓迎(非難)するにしても、そもそも「誰の都合か」に関する情報がもっとあるべきじゃないかって気がわたしはします。中国のことだけでなく。