組んだり組まなかったり

中国では腕を組んで歩いてる人たちをよく見かけました。
女の子もおじさんも、、老若男女、同性同士も異性同士も腕や肩を組んでいました。
(、、あれ?異性「同士」って言うっけ?、、しらべたら「同士=身分や境遇、性質などが互いに共通している人。」だってさ。ちっ!「<性>が同じ」なら同士だろ、ってことかよ!ま、別にいいけどさ、、。で、男女だと異性同士じゃなくて恋人同士になるんだ、なんだかね、、。まいいけど。)

で、どれくらいの人が腕を組んでたかというと、、わたしの見た感じでは、
一人でいる人・誰かといても腕を組んでない人  72%、
女同士で腕を組んでいる人  23% 
男女で腕を組んでいる     9%       
男同士で(肩、手をつなぐ)   3%
女同士で手をつないでいる  5%
その他           10%

、、計算が合わない気がするけれど、繁華街には人がたっくさんいたので合わせて100%以上ってこともありうると思う。(…ないか。)


なんだかプライドの日みたい。同性同士で腕組んでるのを見て、すぐに「プライド」という洋風?な日を当てはめるのは見当はずれってことはわかってるけど、でもそういう「ゲイ言説」を思い出さずにいられませんでした。
どうしてかっていうと、日本で同性が腕を組んでいたらそう思われるだろう、というか、わたしはそう思うだろうからです。


日本では年齢によって手をつないでいい相手が変わると思うのですが、
いったい何歳から、男女以外のペアが腕を組んだり手をつなぐのは
「逸脱」
ってことになり、その規準はどんな情報を通じてまかり通っているのでしたっけ?

わたしの記憶では、小学校は女子の友だちといっつも腕を組んで歩いていました。中学は、、どうだったかな、、同性の友人と組んでたかも、、、。高校のときはたぶん組んでない。それ以降は、、手をつないでくるのは男子でしたね。(そのたびに「なんと迷惑な!」と思ったのですが。ごめん。)
ってわけで、わたしの経験だけから判断すると、十代の後半くらいになると「腕を組む親密さ」は「友だちではなく、恋人同士に属すべし」という不文律が成り立ってたようです。もちろんこれは「カップルとは男女がフツウ、それ以外はフツウじゃない!」という不文律と同時執行されています。なんでこんなセコイ不文律がまかり通ってるんでしょうね。


とはいっても、この不文律に拘束されてる人とあまり認識していない人とがいるみたいで、わたしはひどく拘束されていますが、拘束されていない友人もいました。大学のときです。とっても寒い夜に道を歩いていて、友だちに「ねぇ、寒いから手をつないで歩こうよ」とイノセントに言われてドッキリしたことがあります。というのも、手をつなぐのがイヤだからではなくて、わたしは例の不文律に拘束されているので
『手をつなぐってことは、そういうことじゃないか!?』
と瞬時に悩んだからです。

わたしの心のなかでは事態掌握をめぐって大議論が始まりました。子供のときから知ってて、しょっちゅう会ってるこの駄友だちが、急にわたしにロマンチックな感情を抱くとは思えない、、『でもでも、だけどだけど、手をつなぐってのは、そういうこと、、だよね?、、、もしかしてこの人、無邪気を装ってそういうことを望んでいるのかし、、、でも、、、でもそれはないよね、万が一にもそんなことあるなら、きっと、きっとわたしの方だわ!、、、っつか、ええーっ!わたしがこの人を好きだったなんて、、ぜんぜん信じられない!、、』
『っていうか、この人相手にこんなこと考えること自体どうかしてるよ、、』
『いや、そもそも、この友だちは「寒いから」ってだけの、汚れない、イノセントな気持ちで言ってるというのに、社会的な規範を意識し過ぎた反応をしたりして、わたしって何?第一そんな規範にわたしは反対だし、そんな規範の犠牲者になってはいかん!』
『この人のイノセントさを大事にしなきゃいけない!!』
『そうだそうだ!、わたしも意識しないでフツーに手をつなげばいいじゃんか。』

と、数秒で血が沸騰するくらい頭のなかで白熱の会議をし、寒さもふっとんでしまいました。なんなんでしょう。いざ手をつなぐとなると、すっごく緊張してるのに、「このことに、どんなイミも持たせてはいけない!」と必死に緊張してない風を装って、、クタクタに疲れました。、、イミを持たせないどころか、イミの渦のなかで溺れてましたね。もしかしたら友だちもわたしの異様な緊張感と必死の形相に気づいたかもしれません。ごめんね。


、、なんてことを懐かしく思い出して中国の町を歩いていたのですが、
手をつなぐってことが日本とは違う次元にあるのなら、、わたしも連れに「手をつなごうか!」って言ってみようかな!という気になりました。楽しい旅をしてるんだし、これは手を組むに値するんじゃないかしらん。
でも、、、今回は男女同士になってしまう、、、中国でもやはり男女だと恋人同士ってことになるんだろうか、、、このへんはいったいどうなっているのか。
わたしは別にいいけど、もしも腕を組んでいるときに同行者の知り合いに出くわして「フリンしてる」なんて噂されたら気の毒だし、、、。っていうか、わたしたちってナントカ同士ってことになっていいんだったかし、、まずはこの辺についてこの人の意向を聞いてみるべきかしら。、、でも下手に見解の相違が浮上して旅の途中で面倒なことになるのは避けたいし、、うーーん、、どうしよう。でも、ここで引き下がっては「男女は恋人同士」という固定観念に屈服することになるのではないか、、。でも手をつないだ途端にこの固定観念の実行者ってことになっちゃうし、、これを機にそういう関係って縛り付けるなんてわたしとしても無理、、いったいどうすれば重くなく手を組めるっていうのかしら、どうしたらいいんだろう!
とドキドキして考え込んでしまいましたが、そこでふと大事なことを思い出しました。

別に腕を組まなくてもいいんだった!!

そうそう、もともとわたしは腕を組むのが好きじゃないんだもん!やんなくたっていいんじゃん!!よかったよかった ホッと胸をなでおろしたところに、、「さ、行こ!」 、ガイドのおねえちゃんの手がわたしの腕に。
ええーっ!!
しかし、そっちがその気であるなら、連れを追い出すから今晩部屋に来る?って聞けばいいんかし、、なんて、チラっとおねえの様子を伺ったりして。、、そういや中国ではこれは「なんでもない行為」だったんだっけ。「なんでもないなんでもない」って言い聞かさないと、、。こうしてわたしはまた「なんでもなさ」を繕うのでした。


こんなことからも何が意識されて、何がウヤムヤにされるのかってことを考えてみると面白いですね。
中国では、(わたしの観察では)同性同士で腕を組んでも「奇異」に思われないので、同性カップルでは安心して?腕を組めますし、二人の関係を定義しなくても組めますが、でもそれは、「同性愛」という認識がない(とされている)ことが前提だからかもしれません。(中国の政府?は同性愛についてものすごくしらばっくれてますからね。ま、このへん日本でもエンターテイメントの領域でしか認められていないのですが。)
日本では、ハオレ的なゲイ・レズビアンというアイデンティティを輸入しているせいか、同性で手をつないでいると「そういうことね」って思われるし、「手をつなぐ」という行為が二人の関係の定義づけや表明や宣言にもなりうる。(ストレートはただでさえ世間に大奨励されてるんだから、これ以上宣伝しなくていいでしょ、って男女同士が手をつないでるの見て思ったりもしますよわたし。)
同時に、手をつなぐってことが、恋人か否か、ゲイか否かの窮屈な二択でしか成り立たないってことでもあると思います。

これって、(例えばゲイやレズビアンバイセクシュアルという)アイデンティティが可能かどうか、そしてそうなることで、どんな存在が可能になって何が制限づけられてしまうかっていう話になると思うのですが(思うのですが、実際こういう議論がされてんのか、あるいはすでに語り尽くされてるのか知りませんが)、こういう話で実はもっとも問題なのは、どんな存在の仕方や振舞い方を規範/逸脱として、それぞれの社会の差別的なイデオロギーが流通してるかってことだと思うので(、、以下放棄)


http://www.youtube.com/p.swf?video_id=rNiUkN4GssI
mad TV というコント番組から