雪男 雪女 ヒト サル

イエティ (yeti) は、ヒマラヤ山脈に住むと言われている未確認動物。いわゆる雪男。全身が毛に覆われ、直立歩行すると言われている。    (ウィキペディアWikipedia

雪男: ヒマラヤ山中に住むといわれる、人間に似た動物。猿に似て、全身が黒褐色の毛におおわれているともいう。イェティ。三省堂提供「大辞林 第二版」より (はてなキーワード

雪男。昔は疑問に思わなかったけれど、このネーミングちょっと面白いですね。「雪男」って単性生物なんだろうか?そんで、「雪女」って言われると、「雪男」とカップリングして想像するよりも早く、冬に甚平さんみたいな名前の人んちに入り込んでくる怪談の雪女を思い出しちゃう。となると、雪男は単性生物、雪女は、、寄生生物ってことになるのかし?(ちなみに…もしもこのわたしの作業が未確認動物を説明する作業だとしたら、「未確認」動物のはずなのに、名づけと分類という行為の対象として、自分が理解できる「性別」概念を持ち込んでいるし、性が生物の中心みたいな説明になってる。なんらかの物語のなかで説明しようとしてるし。こういうことが、もっと高次の生物学や科学の世界でも起こっているのではないでしょうか。)


それはさておき、わたしがイエティの話を聞いたのは生物の先生からなんですけど、そのときは「雪男の性別」は話題ではなくて、「おまえら、いいか、もしもイエティらしき生き物がいたら、どうやってヒトかヒトじゃないか見分けるか知ってるか」ってことだった。
 この瞬間、わたしは教室の片隅で「へえー!そうなんだ!!」って椅子からヒックり返るほどの衝撃を覚えました。何が感慨深いって、「ヒトか否か見分ける」ってことです。そうだよな、イエティはただそこにイエティとしているんじゃないんだよね、雪男ともなるとおそらく毛むくじゃらだし、「人間に似て」「猿に似てる」ってどっち側なのかもわかんないもんね、、。で、もしもイエティが人間/「文明」に見つかっちゃったりしたら、たちどころに見分けられて分類されて、この生き物の秘密が晒されて扱われ方が決まるんだわね!
 このときにわたしは、(どこかの雪山のまだ見ぬ生物に思いを馳せながら)「区別」したり「分類」するってことが何らかの意味を持つ大事な、怖い作業なんだってことを知ったのです。ヘレンケラーは「全てのものに名前があり、それが様々な考えにつながっていた」ってなことを言っていましたが、わたしにとってはこの先生のヨタ話が「すべてのモノは分類されていて、それはさまざまな関係のなかにおかれていたのです」って瞬間だったのでした。(その分類がどのようなチカラで行われているのかってことは考えも及ばなかったけど。)


というわけで、どうやって見分けるか。
「鼻の下を見る」そうです。


人間と動物の違いといえば、
道具の使用、とか、文字の使用とか、言葉の使用とか言われてきましたけど、
実は、鼻の下から唇に伸びる二本線と唇の山形の有無にあるんですねぇ!
…サルには線がない。んだって。
(これも生物学的決定論?こんな風に、スパッと言い切れるところが、決定論の強みだろうな。スパッと言われると、ああそうですかって思っちゃうものね。「事実」ってこうして提示されるコトなのかもね。)


もちろん、これを聞いた日に、わたしはこっそり鏡を見ました。鼻の下をジッと見ると、、わたし他の人に比べて鼻の下の線も唇の山形もハッキリしてないんです。…これってもしや、、サルってこと??…なんだか本気で心配になり、誰にも言わず今日まで自分の胸にしまってしまいました。


いま思えば「わたしは境界線上の生き物だ」ってカッコよく言い張れる、かな。
 いや「境界線上」とか「境界内に入っていない」っていうのはやっぱり大変です。その境界を前提にに世の中が動いてるようなものですからね。そのうえ、そもそもの境界や分類の仕方を問題化するなんて、、余裕がないとできないよ、、でも頑張ります。、、って何の話してんだろ。