作者が差別主義と知ったとき

先日ドイツのノーベル賞作家が、実はナチスの親衛隊だったことを告白して議論になってた。わたしは(映画「ブリキの太鼓」を見ただけで)この人の小説を読んだことがないし全然知らないので、今度読んでみてわたしなりに考えてみようと斜め前向きに考えていたのだけど、今日はこれとは違うショックなことを知った。
こっちは別に今まで隠していたわけではなく、当時の新聞にしっかり本人が書いてることなのだけれど、「オズの魔法使い」の原作者ライマン・フランク・ボームは、アメリカ原住民を皆殺しするべきだと主張し、新聞の社説にも書いていたんだと。オズの魔法使い(1900)が出版される10年くらい前の南ダコタ新聞にこう書いている。以下ウィキペディアから抜粋、あとわたしの訳。

The Whites, by law of conquest, by justice of civilization, are masters of the American continent, and the best safety of the frontier settlements will be secured by the total annihilation of the few remaining Indians. Why not annihilation? Their glory has fled, their spirit broken, their manhood effaced; better that they die than live the miserable wretches that they are.占領者の法により、また文明の正義のもとに、白人がアメリカ大陸の主人であり、開拓者たる白人の安全を確保するには残存するインディアンの絶滅が一番である。なぜ壊滅させないのか?インディアンたちの時代は終わり、かの精神も人格も萎えている。みじめな境遇で生きながらえるより死んだほうがよかろう。ってカンジ。


わたし、映画「オズの魔法使い」が大好きで、もしもわたしがアイドルでインタビューのとき「好きな映画は?」って聞かれたら「落ち込んだときにも元気をもらえるオズの魔法使いです(ここにハートマークが入る)」って答えるし、すでに100回くらい見てるんだけど、わたしが好きなのは、あの映画、あのドロシー、あの歌、あのトトなので、実は原作は読んだことないし今後も機会がなければわざわざ読まない気がする。でも、たとえ映画と原作は違うとはいえ、作者と作品は違うとはいえ、時代が違うとはいえ、大好きな映画の原作者がこんな「白人至上主義の差別主義」だと知って、ものすごくやるせない気持ちになった。誰かの生き死にの良し悪しを判断できると思ってるなんてどういう思い上がりだろう。


どうしてこれを知ったかというと、ボームの子孫が謝罪したという話題を偶然聞いたからで、それまでは全然知らなかった。実際に虐殺があったことも知らなかった。だから、せめて、今回こんなカタチであれ知ることができ良かったとは思う。
考えてみれば、ドイツの作家は自分から告白したけど、今回の場合はもっと前の時代のことで、本人ではなく子孫が謝っている。謝ってるのを話題にするってのは、被害を受けた人や問題よりも、謝ってる本人に注目がいってしまうようで、なんつーか再びズルイ気がするけど(、でも死ぬ前にごめんなさいって言えた方が、本人の良心にとっては良かったろうと思う)とにかく今回の場合は、本人はとっくに死んでるので、作家の関係者(家族)が事実を風化させないようにキチンと公表していて偉いと思った。あるいは「テーマパークを作りたいからさっさと謝罪してチャラにするつもりか?」と勘ぐってしまわなくもないけど(→オズ・テーマパークに反対の声があがっているという2000年のCNNの記事CNN International - Breaking News, US News, World News and Video (…そもそも、作者のこういう姿勢が言われないのだって、商売に関わるからだという気がしないでもない。)



ボームのこういう姿勢は「個人のせい」なだけでなく「時代のせい」でもあるとは思う(だから「差別主義」といえるのかもわからない)けど、だけど個人は「時代」に対してまったくの不可抗力ではないはずだ、、と信じている。いまの時代の真っ只中にいるわたしたちも怖いことを信じ込んでいないかし…


http://www.peaknet.net/~aardvark/baum.html
On January 3, 1891 (after the Wounded Knee massacre) The Aberdeen Saturday Pioneer published this editorial
"The PIONEER has before declared that our only safety depends upon the total extirmination of the Indians. Having wronged them for centuries we had better, in order to protect our civilization, follow it up by one more wrong and wipe these untamed and untamable creatures from the face of the earth. In this lies safety for our settlers and the soldiers who are under incompetent commands. Otherwise, we may expect future years to be as full of trouble with the redskins as those have been in the past. われわれの安全はインディアンの根絶にかかっている。これまでもさんざん痛めつけてきたが、最後にもう一押しして、この言うことを聞かない野蛮な生き物を地球から根絶させるべきだ。さもなければ、今後もずっと赤色人種(インディアン)に煩わされるだろう。


[つけたし]
1.差別主義とか白人至上主義という言い方をすべきかどうかすごく迷った。「差別主義」とか「白人至上主義」っていうのは現在の言葉だから、この時代に当てはめられるのは問題があるとわたしも思うから。だから本当は別のタイトルにしたいのだけど、いいのが思い浮かばないのです。


2.「作者が〜と知ったとき」とタイトルにしたけど、知ったときにどうするべきかってことを書いてない。だってわからないんだもん。

だれかれはナチス支持だったとか、いろんな映画監督が戦時中はプロパガンダ映画作ってた、とか、あるいは、平安時代の貴族がどうのとか。何時代の絵画は植民地主義だとか、
「個人」っていう概念がない時代に人権的な視線でみるな、とか
わたし、そういうのについてどう考えればいいのか、考えても考えても結論がでません。考えるのをやめないべきというのがせめてもの結論です。

少なくてもわたしは死ぬまでにあと100回くらい「オズの魔法使い」見るだろうとは思います。でももっと注意深く見ると思います。何が読み取れるのか、どんな可能性を開いているのか/制限しているのか。(ちなみに、たとえ原作者や作曲家や俳優がなんであっても、ウンパルンパ労働組合を作らない限り「夢のチョコレート工場」は見ない。)



3.「時代のパラダイム」 と 「個人の責任/能力」

わたしたちはそれぞれ今いる場所から、今かけているレンズを通して見えるものについて、手持ちの言葉を使って自分たちで考えて議論するしかできない。しかも大きな声を出せる人とそうでない人がいる。とわたしは思います。当時もそうだったろうよと思います。
でも、そうやって自分のいる場所からそれぞれが議論したり考えたりいろいろしてるうちに、レンズの見え方も変わってくるものだと思うし、そこに社会が変わる可能性があると思っています。扇動となる発言も


こんな風に過去の人の過去の論説をとりあげていまごちゃごちゃ思うのも、その時代の人が「それしか考えられなかった」とは思いたくないから。その時代はこうだったから、だけで済ますのはどうかと思からです。みんなが時代の犠牲者だとしたら、誰にも何の責任がないことになっちゃう。言葉にならずとも抵抗しようとしていた人たちの存在を無視することになっちゃうし、別の可能性があった可能性を無視することになっちゃう。つまり、わたしたち一人ひとりは結局は無力ってことになっちゃいそうだから。わたしはそう考えたくはないです。

たとえば、「われわれの安全のための戦い」という論調は、、いまもよく耳にしますが、、これは立場上の利害に関係ない、こうとしか考えられない人の「無垢な」発言なんでしょうか。これに対してわたしたちはただ無力に従っているのでしょうか。


というわけで、過去のことを取捨したり、利用・破棄・参加/消費するのはいまのわたしたち(のうちのだれか)です。わたしが自分の行動で恐れているのは、たとえば今回のことなんかを知らずに、あるいは知っていても重要ではないとみなして、あるいはそれをことさらに強調して、作品なり何なりを持ち上げることで、どんな言説や考え方をバックアップしてしまうんだろうってことです。こういうことを実感しました。