メイドは同志

「つくづくいろんなことを知らないなぁ、わたしなんか知りようもないことばかりだしさ!」と、「友がみなわれより偉くみゆる日よ」ムードです。しかも、わたしには「花をかいきて妻としたしむ」みたいな、一緒にしたしむ妻もいないじゃんか。

、、と書いていて、ふと思ったんだけど、このうたの妻の立場ってどうよ?友にあって自分には足りないと思うような「偉さ」も妻にはそもそも望まれていないようだしさ、妻はただの癒しの供給元かい。あたしが妻だったらこんな気持ちで花を買ってこられても嬉しくないねっ!…と、急にケチをつけたりして、ごめんなさい。…昔からあたし、花を頂くと「花かよ!ちっ、花瓶つくんなきゃなんないよ」と、すさんだ気持ちでペットボトルにハサミをいれるさもしい人間だったんです、、、花をめでる豊かさがない気の毒な人間なんで堪忍してください。(…あたし、誰に謝ってるんだろ。)


あ、、、ケチをつけてて忘れそうだったけど、この度つくづく「モノを知らないなぁ」と思ったのは、「世の流行」というか「常識」というか、、ま、早い話が「メイド」のことなんです、、いまさらメイドに驚くのもなんですけどね。。わたし井の中の蛙なので、こないだ秋葉原に行ったときもやっぱり驚いちゃったけどさ、、「メイド」から連想することがわたしは相当違っているんですよ。


わたしにとってメイドといえば、 「家政婦は見た」
小間使いの日記ブニュエル監督、ジャンヌ・モロー主演。あらすじは、、いえません、、忘れたから。
ロウフィールド館の惨劇」ルス・レンデルの小説。住み込みの召使いが、文盲のため、一家を惨殺する。(←これは小説の1行目に書かれていることです、犯人と被害者と動機を最初に書くという推理小説としては異色の出だしなのです。)わたしは小説より先に映画で見たんだけど、あまりに暗い陰惨な話だったので、わたしと友だちは見終わった途端に気分転換にゲーセンへ駆けつけ、今日までこの映画に関して触れることはなかったのでした、、。
そして"おぞましきレズビアン"を描いた「レベッカ
あ、あと「ロッキー・ホラー」のマジェンダなんですが、


これらのメイド/「召使い」は、「仕える」という気持ちなどさらさらないし、媚びる気も皆無(「レベッカ」はちょっと複雑だけど。)自分の仕事の領域を認識していて、感情労働は一切しないといった頼もしさです。
「主人と召使(…召使い時代のメイドを考えているので)」という「上下」関係におかれ、「下」ゆえに掌握しうる「上」の事情を利用するしたたかさを持っているのである!そして「上」を監獄に送ったり、殺したり、追い詰めたり、追い出したりするのじゃ!!ははは、金持ちめ、ざまあみろ!いけー!われらがメイド、ともに戦って実権を勝ちとろう!!!(…いかん、、力が入ってつい取り乱してしまった。)


でもさ、いまの遊びでやってるメイドはどうやら違う概念のものらしいですね。経済的「上下」とか「性差別」以外の軸が入っていそうだし、何か別の可能性もはらんでそう。、、、わたしには、どんなものなのか知るための資金も時間も技術もないけどさ。…そういう現象(?)に関して、自分がどういう立場になりうるのか、とか、そういうことすらわからないし。


立場、立ち位置といえば、「ニノチカ」。ソ連の「自由のなさ」をからかったコメディなんだけれど、このなかのシーンに、貴族の家に招かれたニノチカグレタ・ガルボ)が、その家の召使いに向って「同志!」と敬礼する場面がある。「共産圏の人だから、召使いと主人の関係がみえなくてトンチンカンなことをするんだね」と笑うはずだった場面なんだけど、これがさ、いま見ると(あるいは、見てるのがわたしだからか)ぜんぜん可笑しくないんですよ。「そうそう同志だよね!」って思うくらいで、かえって、主人である男に対して「威張ってんじゃねーよ!」って腹が立つくらい。こう思うのも「平等」教育のおかげでしょうか、わたしが貧乏だからでしょうか。(この映画に描かれている、共産国に対比させた「自由社会」っていうのが、少しも羨ましくないし。)


同志なのか、使うのか、愛でるのか、「メイド」に対する自分の位置づけ、、なかなか難しいですね。
(うーん、こう書くとわたしにとって「メイド」は常に関係ないところにいる、実在しない人物みたいですが。これが一番の問題だな。)


(…本屋がきらい