バイセクシュアルという言葉に関しては、

「バイ」という「二」とか「両方」をあらわす言葉と、「セクシュアリティは一つであれかし!」という言説との間で、軋轢が起きてるのかもしれませんが、、
「結局は異性愛の"安泰な"生活に逃げるに違いない」という裏切り者候補説と、「本当は同性愛者のくせに、、、」という同性愛恥じ入り説/同性愛と認めるまでのワンステップ説という、主に二つの疑いがもたれるみたいですね*1。(そういえば、マルチナ・ナブラチロワとかジョージ・マイケルとか「自分はバイセクシュアル」から始めましたね、、「始めた」って言い方はないか。でも後から考えれば、「バイセクシュアル」っていう言い方はゲイとしてのカムアウト過程のワンクッションみたいでしたよね。これって「バイセクシュアル」の方が社会に受け入れられやすい言い方だからでしょうね、、「社会」って異性愛中心主義社会のことですが。)
 でもこの二つの「疑惑」があるのも、よく考えてみれば、同性愛だと表明することも同性愛として存在することも困難な社会(「同性愛者だ」ってわざわざ言わなければならないことも含めて)とか、異性愛者だけが特権を持っている社会こそが問題なんだとわたしは思うのです。というか「正しい性のあり方」を決めつける態度。つまり、性差別と異性愛主義が問題なんであって、「本当に本当にバイ(あるいはレズ、ゲイ、ストレート)なのか?」とか、「本当はどっちの性別が好きなのさ!」というのは、うーん、、何のためにそれが話されるかによるんじゃないかな。。「そもそも何故どっちかだと証明しなきゃいけないんだよ?」な文脈とか。、異性愛中心主義をどうにかするために、そういう言葉を使ってみるとか。そういう文脈ならわたしはガゼン興味がありますが。
それから、異性愛だからって「安穏」に暮らせるわけじゃないし、そこには「結婚こそが正しいゴール」みたいなヒエラルキーもあるわけで。性差別とか異性愛主義を支えてると同時に実行していると同時に理由に使っているのは結婚とか就職とかそういう社会制度だと思うから、やっぱり社会的経済的な側面からも考えないといけないだろうし。

と、こんな風に他人事っぽく言えるのは、わたしが孤立して殆ど尼僧のような生活をしてるからかもしれませんね。コミュニティに入っている人とか、何らかの関係にある人は、もっと違う風にお考えかもしれません。どうでしょう?
ちなみに、わたしの生活が尼僧みたいというのは、尼僧ヨアンナのことです。(、、うむ、教養が吹きこぼれていて、我ながらいいシメくくりだ)


あとは 2曲(どちらも1分程度)でごまかそう。
めちゃ行きたい!!



↑Kids in the Hall というカナダのコント番組の映画版「ブレイン・キャンディ」(←わたしの近所のレンタル屋さんですら置いてあったので、きっと他でも見つかると思います。)の1シーンです。Kids in the Hall大好き。


psいま教わりました。Kellyのshoesのハロウィン版パロディ→ http://www.youtube.com/watch?v=1R-V846_Mm8

*1:そしてもう一つ。上手く触れられないので、注釈みたいにしちゃいますが、生きてるものならなんでもいいセックス好き/多情人間という説もありますね。そういえば吸血鬼映画にバイセクシュアルが多いのはなぜでしょうね。