パンズ・ラビリンスの読解

今日は友だちと『パンズ・ラビリンス』について話しました。とってもいい話ができたので、ここにも(先日はもったいぶってたわけじゃなくて世界の常識と思ってたから書かなかった)わたしの考えを書いてみます。
ご注意:映画見てないと意味不明すぎると思います、、しかも、あらすじは言ってないくせに、ネタバレはありまくりです。


わたしの解釈、まず最初のポイントは「フェミニスト的)ゲリラ・ファンタジー」として。

冷酷な継父ヴィダル大尉に象徴されるものは、「独裁政治」や暴力による「弾圧」だけでなく、「家父長制」(←「生まれるのは息子に決まってる」「母子が危険なら息子を助けるように」という発言に顕著だけど、それ以外にも殆どの言動に表れてる)と、それに伴う「秩序(の強要)」(整理整頓マニアでしょ?)や「男の歴史観」(時計/時/歴史を管理する)といったものだと思う。

これらが極悪非道に描かれており、のちにこれが嬉しいほどに、否定され、罰せられ、断ち切られる。それも、ゲリラの手によって。ウフフ。そのうえ、そのゲリラの活躍は家父長的なものではない。だって大尉と同じような体制のゲリラでは、ただのマッチョ闘争でしかないでしょ。ありがちなマッチョ闘争をこの映画ではちゃんと避けてる。と思う。
特に、女であるメルセデスが「女の立場」から抗っているところがいい(あそこで大尉と戦えたのは、彼女がエプロンをつけ台所ナイフを使う「女」だったから!)  それに、最後に大尉が「息子に俺が死んだ時間を教えてくれ」と嘆願したのを、途中でさえぎって「断る、あんたの息子には父親の名前も教えてない」バキューン!っていうところも、「軍人/父の支配した時間概念」を子孫に受け継がないばかりかか、家父長的な名前の継承も断ってる。このへん、いえい!ざまあみろ!!!という胸のすく場面であります。

と、ここまでが第一ポイント。

次は、女の子ファンタジー

ゲリラが「大尉(家父長・独裁)」とは別の可能性を探っている一方で、あの女の子オフェリアはどうなの?ってことなんだけど、これを考えると第一ポイント(ゲリラファンタジー)のウラにある入り組んだ骨組みが見えてくると思う。

オフィリアの「ラビリンス」は多くの映画評で指摘されてるように「不幸な現実」からの逃避先である。でもその逃避先は現実と無関係の桃源郷ではない、とわたしは思う。つまり「不幸な現実」との関係で捉えなければならないと思う。
で、彼女にとっての「不幸な現実」というのは実は「大尉の作り出す現実―大尉の大きな物語」であって、つまり上に書いたような大尉が象徴する諸々のことを指しているわけなので、ラビリンスはただ「現実逃避」なだけではなく、「その現実と拮抗する(かもしれぬ)別の現実・別の物語」の可能性として捉えられると思う。たとえば、大尉の大きな物語に対するお伽噺という傍流の物語のように。  だけど、ここでポイントなのは、この「オフィリアのラビリンス」=「別の現実・物語の可能性」とは、「オカルト」とか「人間の解釈できない世界」であるらしい点、、、映画のなかでお伽噺の花が出てくるでしょ?彼女のラビリンスはまるであの花のように人間には届かない「永遠」のようなものかもしれない。というわけ(パンが女の子を見限ろうとしたとき、「お前はもう永遠ではなく、過去になり、記憶になり、風化する」ってなことを言っていたけど、逆に言えば、もしも見限られなかったら彼女は「永遠」なのだから。)


こんなふうに大尉の物語(家父長制・名前(言語)と歴史を管理する独裁)と女の子の物語(オカルト・言語が及ばない世界)は、互いに対峙する別の次元にあると考えられます。


それでは、話を戻して、最初に挙げたゲリラはどうか。ゲリラは(大尉に対して・女の子に対して)どんな次元にありどんな物語を持ってる? 、、、次の日へつづく。

・・・

次の日のつづきです。
「つづく」と書いておきながら、わたしアホなんで一日経つとかなり忘れてしまうんですが、そのうえ映画を見て2週間近く経つので、、すいません。とあやまりつつ

ひとまずゲリラのことはおいといて、メルセデスとオフェリアに注目したいと思います。この二人、似てません? 二人とも弟がいるし、大尉(に象徴されるもの)からの弾圧という共通の敵と闘っている。それだけでなく、メルセデスが独立して行動的なように、オフィリアは(自分の母親のように受身ではなく)冷静に薬品をチェックしたり、試練を受け入れ行動していく。
(この二人が実は同一人物の別の状態というのは言い過ぎだとして、、しかし後でまたこの話に戻ってきますが)、でも同じ経験をしている二人として見てもいいよね??一人は子どもゆえ途中でブドウ食べたりして「こらっ!」って叱りたくなるけど。大尉の独裁のもとで、それに屈することなく暮らしている二人。同じ抑圧と戦っているんだけど、だけど、この二人が全く違う行動をしてるときがあって、この違いが二人の存在の仕方に決定的な違いをあらわしていると思う。
それがどんな違いかというと(これを発見した自分を誉めてあげたいのだけど)、映画のなかで、メルセデスが「ゲリラ」の仕事をしてるとき、オフェリアはパンの試練を受けて「オカルト界?」に行ってるんです。二人の行動の違い、つまり二人がそれぞれ従事するゲリラとオカルトの違いはなんでしょう?
特に、結末で二人が別の世界に向う/死別すると考えると、この行動の違いはどのような意味を持つのでしょう?


まず、もう一度「オカルト界」ってどんなところかって話に戻ってみると、、
初めてパンに会ったとき、オフィリアが名前を尋ねるとパンは確か、「わしの名前なんて聞いても無駄じゃ」みたいなことを言って「わしの名前を言えるのは木と風だけだ」と答えている。つまり、パンは人間の言語(あるいは大人の/大尉の言語?)では捉えられない存在だと知らされる。 オフィリアの受ける試練にも、何故?とか何のために?という説明がされない、意味不明の決まり事がある。 他にも、もう忘れたけど、、考えてみると、オカルト界ってのは、いくら人間が言葉を重ねて表そうとしても表せない、人間の理解や解釈では到達できない別の次元だって考えられる。*1
この「オカルト次元」が、大尉の抑圧に影響されて形成されたのか、それとも常に存在していたものなのかはわかりませんが(しかし、大尉の命令でこの土地に連れて来られたので、抑圧により形成されたと言えるかも)、いまこの世界が横暴な大尉の抑圧されていることは確かです→大尉の規則に従わねばならず、母を治すおまじないは潰される。


では、どのように大尉に対して立ち向かう(/向かわない)のか。
オフィリアは(メルセデスたちゲリラとは違って)「ラビリンス」=「人間の規則や言語(あるいは大尉/大人の言語や秩序)を超えた世界」に行く/戻るために頑張るのです。文字の書いてない本を読み、森の中の大蛙から鍵を取り、魔法のチョークでよくわかんないとこに行き、入ったら出られなくなるラビリンスに入っていこうとするのです。(こどもに他に手段があるでしょうか?)
ここで、彼女とメルセデスの行動の違いが明らかになります。メルセデスたちゲリラは、銃と爆弾という(大尉と同じ)道具を使い、まじないではなく医療を使い、お伽噺ではなく文字で書かれた新聞を読み分析してるのです。メルセデスが女の立場から戦うその戦いですら、実はナイフによる暴力を伴っています。人間のボキャブラリを超えたラビリンスではなく、そのときの人間の言葉や道具を使って、同じ土壌で戦っているのです。オフィリアとゲリラはこのような点で対照的なのです。


メルセデスたちゲリラは、最終的には大尉を追い詰め、大尉の話を暴力的に遮り、そして撃ち殺します。こうして彼女たちは、わたしが最初に書いた大尉に代表される諸々を否定するのですが、その否定の仕方はやはり暴力と言葉によるものだと指摘しなければなりません。彼女たちは(別の角度からであれ)大尉と同じ暴力と同じボキャブラリを使ったからこそ、大尉を否定することができたのです。


一方で、オフェリアは「ラビリンスに行く/死ぬ」ので、メルセデスたちとは別れます。ここで彼女がラビリンスに行った(戻った)と解釈すると、ゲリラにもオフェリアにもウィンウィンの結末ですが、死ぬととると(ゲリラは成功したけど)オフィリアの戦いは成功しなかったってことになりそうです。どうなんでしょう?


わたしはここでもう一つのことも考えていて、(それは例のわたしの「オフェリアはメルセデスの子ども時代」妄想なんですが、)これはメルセデスがオフェリア状態から成長して*2訣別する瞬間なんだと思うんです。考えてみれば、オフェリアがオカルトに走ってるのは、オカルトより他に手段のない子ども時代だからともいえます。そうであれば、オカルトではなく(言葉と暴力という)大人の手段を使ったメルセデスは、手段のない子ども時代と決別すると考えられるのではないでしょうか。
大人になると、手段(ボキャブラリと道具)を手にしてオカルトではない戦いを選ぶことができるし、実際それを選んでいる。あるいは、オカルトではない戦いを選んだからこそ、それに伴う手段を得ている。のです。このラストの訣別は、そういった分かれ道の選択がされる瞬間なんだと思うのです。もちろんわたしちはすでに映画を通じてこの選択(オカルトではなく、ゲリラという選択)が大尉(に代表される"悪")を殺すのを見ています。この意味でもゲリラ・ファンタジーなのです。


さて。それでは、大尉の物語とオフェリアの物語には触れたけど、このゲリラの物語はなんなのか? 独裁と家父長制をどこまで絶つことができるでしょうか。大尉と同じボキャブラリであっても、違う角度から使われるために、変更され、違う意味が加わっていくでしょう、そうであってほしい。 けど、わたしたちはまだわかりません、映画はそこからの物語を語ってはいないのです。この意味で、この映画は「ゲリラの新しい物語が始まるまで」の壮大なプロローグのようです。これが、この映画のゲリラ・ファンタジーだと思うもう一つの理由です。おまじないの異次元世界ではなく、言葉と理論と暴力を使う彼らは、パンの言うように「もはや永遠ではなく、記憶になり、風化していく」でしょう。永遠の花があっても届かないままの、人間の世界の物語になるでしょう。でも、それは同時に大尉から取り返した/奪っい取った物語でもあるのです。




ちなみに。
メルセデスは最初は「小間遣い」としてのみ現れているので、彼女は過去に起こったことやこれから起こることの「目撃者/傍観者」です。しかも大尉の命令を聞きつつオフェリアに優しく接しているところから、冷静で優しそうな(=好ましい)人物であって、従って、物語上のモラル・スタンダードという印象がある。このメルセデスが、オフェリアに向って「お伽噺は信じない」と答えるのはいいとしても、なぜ「パンを信じちゃだめよ」って言うんでしょう?モラルスタンダードの言うことなので、映画見ながら「それじゃパンは悪いやつで、オフェリアはいずれパンに騙されるの?」と思ったし、もしオフェリアが騙されないとしたらメルセデスはウソついた、ってことになりそうだけど、そうなってもいないし。 「パンは信用できない」というこのセリフがすごく未消化だった気がするのだけど。でも、上記のわけで、メルセデスはモラルスタンダードではなく、パンのラビリンスを選ばないという選択をした人だととると、それなりに納得できる気がします。

*1:このあたり「パン」や神話・民話に関する知識がある人が見れば、もっと他のことも見出されると思います。

*2:「成長」って書くとより良いものになったみたいだから語弊があるけど。