つたえる方法

うっかり買ってしまったために、わたしはかなり憎々しい気持ちで「ほぼ日手帳」を「愛用」している。憎みながら愛用。円丈師匠のガン患者じゃないけど、人間とは矛盾に満ちた生き物なのだよ…。でね、この手帳の何が憎いって、意味不明に高いし、過剰包装だし、なんとなく調子こいてるし、それになんといっても、毎日ついてくる「日々の言葉」これがつまらない、イマイチ過ぎる。各ページにいろんな人の一言が載ってるのですが、つまらないのなんのって、立てる必要のない腹を立ててしまう。だからなるべく読まないようにしているのです。いつもは。
いつもは読まないんだけど、さっきふっと目に入って読んでしまった。ムキーーッ!このあいだの「新日曜美術館」のアートシーンというおまけコーナーに出てたナントカ達男に向けた以来のなんじゃこりゃ!ですよ。

2月2日
「自分の考えを伝えられるのなら、 
 どんな方法でもかまわない」と、ぼくは思っているんです。
つまり、専門技能がないとしても「つたえる方法」を持っていればいい。
自分の規準で、つたえられたらいいんです。

デザイン界の有名人の一言なので、デザインの話をしているのかもしれません。でも、文脈なく切り取られた断片なので、デザインという特定分野ではなく、一般的な話かもしれません。脈絡なく切り取られているので、たぶん、手帳を広げて読む人の読み方に委ねているのでしょう。専門的でない・成功していないわたしたちみんなに「臆せずがんばれ」とエールを送ってくださっているのかもしれません。それなのに、恩を徒で返したくないのですが、この手帳への愛憎ゆえ「誤読」して言います。

「自分の考えを伝えられるのなら、 
 どんな方法でもかまわない」と、ぼくは思っているんです。

なんてノンキなんでしょう!!ホントに羨ましいですよ!!


、、「どんな方法」って、人質やテロリズムでもいいんでしょうか?あるいは、自殺でもいいんでしょうか?というか、そもそもなんでテロや自殺という手段がとられるんでしょう?(わたしは伝達/コミュニケーション(の可能性/のなさ)は暴力と隣り合わせと思っているので真剣に文句を言います。)
 

ずっと前に、友だちが怒って見せてくれたのですが、『ニューズウィーク』か『タイム』のイスラエルパレスチナの記事(とっておくべきだった!)が、双方の「暴力」を同じレベルの暴力として扱ってました(というかパレスチナの方がより暴力的と非難すらしていたんです。)一体そうなんでしょうか?どうすれば「同じ暴力」として扱えるのか、かなり魔法的な文章力だと思いますが、イスラエルは戦車と銃器、パレスチナは小石を投げる子どもや大人です。
いったい、戦車に小石を投げるなんて、ヤミクモ過ぎないでしょうか。そんなにまでして小石に向う状況ってなんでしょう。選ばれて小石という手段なんでしょうか。「ナニカ」を伝えたい状況、あるいは伝えたいのに伝わらない「ナニカ」が、やっとたどりついたのが小石だと想像できないでしょうか。


「つたえる方法」は自由気ままに無数にあるのではなくて、権力・経済関係のなかに、制度や表現技術のなかに、歴史を背負った人間関係のなかにあるのですから、

専門技能がないとしても「つたえる方法」を持っていればいい。

って、これがいかに平等じゃなくていっかに難しいことか!「持っていれば」って、それが容易にできないからこそ問題なのでは?大型企業の媒体である『ニューズウィーク』みたいに伝えられないから、小石なんでは?
あと、いま思い浮かんだのは「家庭内暴力」とか「デートレイプ」といった言説。こういった言葉(と法律と支援)がなかった時代の人たちは、自分に起きたことを、どんな言葉やどんな態度で、誰に向って伝えられたのでしょう。どんな方法を持っていて、そして、どうやって対応されたでしょう?

自分の規準で、つたえられたらいいんです。

、、なんだか自己責任言説のような空しさを感じてしまいます。


なによりかにより「伝える」のは一方的な作業ではなく、伝達先の人がいるんですよね。
いくら伝えようとしても、相手が同じ伝達手段や言葉や制度を共有していなかったらどうなるんでしょう?
いくら伝えようとしても、相手が「聞く耳」を持っていなかったら。→ここで小石話に戻る。


というわけです。そもそもこの一言は、なにかしら「考え」があって、それをなんらかの「方法」で伝えるという前提ですので、「考えと方法」を「中身と容器」のような関係で捉えているようです。わたしは、そうではなくて、「卵とニワトリ」というか、分離不可能なものだと思っています。歴史的に社会的に可能になっている方法があるからこそ、その方法ゆえに伝えられる考えが形成されるし、それでも伝えられない/伝わらない「ナニカ」が残ってうずくから方法にバリエーションが出るし、受け取る側の解釈や誤読や誤解にもバリエーションが出るのだと思うのですよ。わたしはこういう言葉や方法では掬えない「ナニカ」が気になるし、そういうものに気づけたら立派だなと思うんです。
だから、こういうことを全く無視したこの手の「日々の言葉」にはホンットに腹が立つのです。こんなこと言って威張ってないで、聞く耳を持つ努力しろや。ったく。、それと、こんなことに聞く耳持たされたくないわい!!あー悪態つきやまぬ。(…だったら手帳使わなきゃいいのにね、、でも長いものに巻かれたいというか、、、人間とは矛盾した生き物なんです。)
 


ところで、わたしは自分が思いつきだけのデタラメ人間で練習とかけ離れているせいか、「芸術」の方法については結構保守的?でもあって、今までの技術を大変ありがたく感じ尊重しています。例えば、画家になりたい人が先人の作品を模写して練習したり、作家になりたい人がエライ作家の文章を真似して写してみたり、っていうのは立派だと思うし、そうすべきだと思っているのです。いろんな技法を学んだからこそ、これは、という方法を「選べる」と思うからです。そうやって「選んで」できるものが芸術だと思い、大変あり難く思っています。一方で、選んでなくても、偶然であっても「これは!」っていうのもありますので、それも大変ありがたいと思っています。でもそういう判断の規準はわかりません。たぶんでたらめです。