介護エッセイ

うちの年寄り
うちの年寄りはテレビで「高齢化社会」と耳にするといつも申し訳ない気持ちになると言っている。長生きして叱られてるみたい、とも言っていた。考えてみれば、「高齢」という単語は「問題」とばかり結び付けられているものね。「少子高齢化問題」とばかり言われて、「労働人口問題」とか「社会保障問題」という言い方がメインじゃないのはどういうわけだろう。


、、というわけで。
わたしの実家の老人はわりと元気でアルツハイマーもないのだけど、老人なりの記憶と体力なので、介護保険のお世話になっています。おかげでそれなりに暮らしているのですが、しかし、修行の足りない一族なので、いつもポジティブでニコニコしていられるわけでなく、、、年寄りのやることが覚束なくなって、記憶が弱くなって、以前はできたことが段々できなくなっていくのを目にしていると、戸惑ったり、悲しくなったり、いちいち横から口を出してカリカリすることもあります。年寄りになるのも初めてだし、年寄りと暮らすのも初めて(わたしは一緒に暮らしてもいませんが)、初心者同士なんですもの。


で、そんなうちの最近のブームは「介護エッセイ」です。
「そうそう、そういうことあるよね!」から、「この人もやるせなくなるんだ…」、「そっか、こういうときはケア・マネージャーに遠慮しなくてもいいのね」と共感できるのが嬉しいし、筆者の親を思う気持ちを読むと「あぁ、わたしは年寄りを尊重する態度が減っていたかも、、」と反省したり。情報を共有できるし、気持ちのうえでも支えになるんです。


というのも、介護保険のおかげで、施設を利用させて頂いたり、少しは情報交換や交流ができるとはいえ、それでもまだまだ基本は「家(あるいは個人)」単位なので、やはり孤立しているのです。だから、他の人も同じ経験しているとわかると少しホッとするし、実践的な情報が得られるととても助かるのです。(情報不足・理解不足の環境で暮らす悩める少年少女が、LGBTQ関係のカミングアウト本を読む感じだと思います。)


本の感想
では、最近わたしが読んだ手記3冊を読んだ順にご紹介します。
『女ひとりで親を看取る』山口美江 (2008)
『母に歌う子守唄:わたしの介護日誌』落合恵子(2004)
『母の介護:102歳で看取るまで』坪内ミキ子 (2007)


女ひとりで親を看取る山口美江
アルツハイマーにかかられたお父様との二人暮らしの様子を綴られています。
文章もわかりやすく面白く、とても上手にまとまっているので、一気に読んでしまいました。お父様の変化や出来事を描写しながら、自分の想いや不安や決断にいたる経緯までが、きめ細かく、ときにユーモラスに語られています。ご自分に起きたことや感じたことを、上手に消化させて文章にされているのがわかりました。
 ところで、山口さんは、お父様の状況と、自分の仕事と、介護保険や施設・病院でできることとできないこと、これらの状況を踏まえたうえで、(苦労なさったとは思いますが)上手にやりくりされています。賢い方なのだなあと思いました。たとえば、途中から、おそらく制度が変わったせいで(わたしから見ればダメ失策のせいで)「余分」な問題も増えてるのですが、山口さんはそれについては触れず、その範囲でできること&しなければならないことを見極めて実行されています。
 そういうわけで、制度や政策を問題にする気配は全く漂ってなかったのですが、、、できれば、これから問題にしてほしい。こんなに上手にわかりやすく文章を書かれるのですから、福祉問題の提唱者になってくれないかな、と思いました。


母に歌う子守唄落合恵子
アルツハイマーのお母様との生活について、新聞に連載されたエッセイをまとめたものです。初めて落合さんの本を読みました。個人の経験をまじえながら介護の社会的現在と問題を語る、という硬派な?アドボカシーものを想像していたのですが、介護問題を射程内に入れつつも、あくまでご自分の経験や想いを中心にしていて、これが功を奏していると思いました、少なくてもわたしには。「そうそう!」と思えることが窓口になるのだし。 
 特に最後の方で感じたのですが、介護をめぐって何か問題を感じても、役所や医者や施設の人たち(や漠然とした社会全体)には「お世話になってる」という思いから遠慮してしまいがちなのですが、遠慮せず疑問を発してもいいんだと心強かったです。


母の介護坪内ミキ子
人に歴史あり、介護版という印象です。もちろん、介護される人もする人も、それぞれ人生を背負って生活を抱えているので、誰でも歴史アリなのですが、この本は、著者が「坪内さん、渡辺さんで、坪内さん」(連想ゲーム)の坪内さん、お母様が宝塚一期生のスター出身なだけに、登場する固有名詞が坪内逍遥小林一三市川雷蔵だったり、映画の話や短歌までうたわれているのです。
 わがままお嬢さまだったお母様が、介護を必要とするようになります。お母様自身は「わがまま」と「人の世話になる」という板ばさみのなかにあり、坪内さんはそんなお母様のお立場にも配慮しながら、ヘルパーさんとともにわがままにつきあわせられながら反省しながらお力を尽くされています。「おばあちゃん」という呼ばれ方を望むといった、今までなら全く柄に合わないような変容を、お母様がご自分の状況を受け入れるために無意識に取り入れた方法かもしれない、と気にかけておられたのが印象に残ります。
 この本の惜しむべきは、あまりに文学部っぽく完結していて、介護話が坪内家を出ないところです。「そうでしたか、それは大変でしたね。」で終わってしまうのです。それでももちろんいいのでしょうが、なんせわたしは社会問題にしたがり屋ですので。人に歴史ありだけでなく「人は社会のなかにあり」にもしてほしかったです。


以上、
ここに挙げたような老人介護の手記は、基本的に、介護する人が、介護される人について書いています。つまり、介護する人の視点で書かれているわけで、介護される人はこれについても「受身」でいるしかありません。この3冊に共通していたのは、「もしかしたら、これはこういう気持ちの表れかな?」と想像していること、それから「こんな風に書いたら嫌がるだろうか」「このことを話題にすると知ったら怒られるかな」といつも迷っていられることです。介護と同じように、ここでもお母様やお父様を「受身」の立場においてしまうということを自覚されているようです。そこにも介護と同じ「やるせなさ」が表れてると思いました。わたしもうちの年寄りにもっと心を使わなきゃと思います。


チベットのお年寄り
ところで、わたしの心の一部はチベットの人たちと共にあるので(正確に言えば、共にあるつもりに勝手になっているので、)ここでもいきなりチベットの話になります。
チベットは空気が薄いから、早い時期から認知症のようになる人がかなり多いとガイドさんが言っていました。どうなんでしょう。中国がもたらしていると主張する「近代化」や「経済成長」は、なにか役に立ってるんでしょうねえぇ!! 
あの穏やかで聡明で敬虔なおばあさまたちが、どうしていらっしゃるかとても心配です。