『古都』

spongey2005-07-11


先日、文脈は無視しちゃいかん!という風なことを力説した気がするが、その舌の根も乾かぬうちに、文脈を無視しようと思う。ストーリーを忘れた映画の話をしようと思う。、、君子は豹変するのです。


「どのテキストもレズビアン」といったのはドロシー・アリソンだった、っけ?読書するときは「自分が読みたいと思うように再/解釈をしていた。」と。  これは珍しいことではないかもしれないよね。『仮面の告白』では確か、ジャンヌ・ダルクが女だっていうのがイヤで、勝手に書き直していた。

で、今日ふと思い出して考えてみたのだが、わたしにとって「古都」(岩下志麻の方)は「レズビアン映画」だ。書き直しや再解釈ではなく、脱文脈化によって(というかストーリーを忘れ果てたせいで)。(ちなみに川端康成は結構読んだのだが、知的にチャレンジされているので何ひとつも覚えていない、、「古都」も全然覚えてない。)

どんな映画かというと、生まれてすぐ別れ別れになっていた双子の姉妹が、大人になって偶然再会して、ドウノコウノ、、という話である。

この「ドウノコウノ」ははっきり言ってわたしにはどうでもいい。記憶に残っている部分(二人の再会=密会)がわたしの「レズビアン映画」を作っているのだから。(しつこいけど、わたしの記憶に勝手に残っているだけで、映画では実際どうなってるか忘れたのです、)


映画は千恵子と苗子という双子を岩下志麻が二役で演じている。

千恵子の方は、呉服屋の娘で、引く手数多のきれいでおしとやかなお嬢様。
でも、このお嬢様は子供のころから周囲(呉服屋家族)に馴染めず、よそ者のような気がしている。

そんなお嬢様が、ある日偶然、生き別れになっていた苗子に会う。
苗子はキコリの家で、キコリとして力仕事をして暮らしているのだが、千恵子はこの出会いで自分がキコリの家から呉服屋へ貰われていったことがわかる。

で、このお嬢様千恵子とキコリ苗子の「再会」である。(赤ちゃんのとき別れて以来なので、「再会」というより「初会」なのだが。)
二人の階級的違いや育ちの格差が強調されている場面なのだけど、このコントラストの付け方が、別の読み方を可能にしているのだ。
こんな感じ:

お嬢様(千恵子)が日傘を持って、きれいな格好をしてお嬢様っぽく森に訪ねていくと、
キコリ(苗子)の方は、たくましい感じで現れ、
お嬢様が座れるように、ほっかむりをとって切り株に掛けたりする。

ピクニック風にお話をしていると、突然雷が鳴り、大きな音をたてながら近くに落ちる、
千恵子が怯え、苗子が「わたしがついてるから大丈夫よ」と抱きしめてなだめる、などなど。


これは、まるで、、そう、ブッチとフェムなのだ。

そもそも、お嬢様が自分がよそ者のような気がしているのは、もしかしたら大店のお嬢様という役割(→近々お婿を貰うことになっている)がそぐわないのでは? もちろん映画では疎外感を感じていた理由は「貰われっ子だから」、となっているのだけど、、だけどだけど
この「実はわたしは、、」がわかるのは苗子に会ったときなのだよ。、、「本当の自分」をわからせてくれたのは苗子、、。苗子との関係は疎外感をなくさせ、初めて自分をめぐるいろんなことに納得がいくようになる。、、こういう言説を他に聞かない? you make me feel like a natural woman的な。


二人が向いあうと、周囲の陰が消え(、、森だし)二人だけの世界になってしまう、まるでウエストサイド物語でトニーとナタリーウッドが出会う場面のように。そして
「もう一生、そばから離れないで」とかなんだとか言って、拗ねたり、口説いたり、約束したり、とにかく熱烈に思いを告白しあう。(覚えてなくて残念なのだが、何度もデートし、ずっと〔くどき〕が続くのだ)


このお互いへの熱烈な思いの告白を、恋人同士のそれ以外のいったい何としてみることができるというのだ!


(、、あ、双子だっけね。)(物語的に、姉妹でなくても別に差し支えないような気がする、、言い方を変えるとこの姉妹関係は降って沸いたような印象がある。姉妹ということで二人は親密になるのだが、逆にいうと、「姉妹」という(非性化された)設定にし、二人の親密さを「安全圏」に入れることによって、はじめて物語上で二人の女が親密になることができるホモフォビックな設定ともいえる。、、、ただ、この場面「安全圏」にある気がしなくて、そのせいでこんな読み方もできるんだけどね)


やがて、どっちかが誰かと結婚するとかしないとかで揉めてるときも、「あなたがそう言うのなら」ってことを言ってた気がする。(、、わたしの妄想でOK、だけど、これってS&M物語にみられる愛情表現じゃん?)


というわけで、これはわたしにとってレズビアン映画になるのである。


、、この映画を見たのは、中学とかそんなころだった。12チャンネルのお昼の映画あたりで。この森の場面がなんだかとても「異様」な感じがした、「これって、どうなの?」と思ったのを覚えている。だから、いま、その当時の自分の印象に向けて解説を試みたわけなのだが、、、。もしもカミングアウト・ストーリーなら「どうりでそのときからわたしは、、」となるようなところだと思う。つまりアイデンティティが遡及的に確認されるような場面、、、当時のわたしがこの解説を聞いても賛成しないかもしれないけど。


ストレート映画だからといって安心してお昼に放送していても、「奇妙な」解釈の可能性をいくらでも含んでいて、正当デナイモノがたくましく育っていき、増殖したりするんだぞ。いえい!