『卍』


わたしが見たのは、、、、さて、いつだったかのう、というくらい前なのだが、
この映画をみて友人は、さっそく親に電話して「明日死ぬなら、なんとしてもこの映画を見て」と叫んでいた。(、、なんで親に?)


若尾文子はきれいだし、岸田今日子なんてもう、なんというか、、名人芸。
心に残る名画、そして心に残るキャンプ映画である。


大雑把な言い方になるが、映画や小説で「同性愛」が「ポジティブ」に描かれるようになったのは比較的最近のことである。それもごくごくたまに、だけどね。(もちろん「ネガティブ」なものが今でもたくさんあるが。)(何がどう「ポジティブ/ネガティブ」か、とか本当は複雑な問題だし、そのうえさらに、わたしとしては「ポジティブ」「ネガティブ」議論で終わりにしたくはないのだが、まあ今回はここに留めておく。)

それまでは、そして今でも、女同士の恋愛だったり(三角、四角関係だったり)すると、すぐに「倒錯」とか「禁断」という単語が使われ、「罪の意識」とか「自責にかられる」ようなセリフがゴロゴロしているものなのだが、
この映画は「罪悪感」の描写なんかでグズグズしてはいない。(かといって「同性愛」あるいは「バイセクシュアル」の「ポジティブな」描写ではないのだが。)谷崎の小説よりもずっと痛快になってる(気がする。)

(ちなみに、この映画は1964年公開のようだけれど、アメリカでは例えば「噂の二人」が公開されたのが1961年。こんな比較しても仕方ないかもしれないけれど、『噂の二人』に描かれる「罪」をめぐる弁明や謝罪や孤独なんかは、この「卍」には無縁の世界だ。どちらも密室度の高い映画であるが、『噂の二人』が罪悪感に取り付かれた閉じた物語であるのに対して、『卍』はなんとも開放的で堂々としていている。「罪」的な発言がされるときも、岸田今日子がそれを超越してしまっている。)(余談だが、「噂の二人」のシャーリーマクレーンはさすが。さらに余談だが「スィート・チャリティ」のシャーリーなんて、可愛くてもうホント宝石みたい。大好き。)


(・・・)
というわけで、わたしにとって『卍』はもろ手を挙げてスタイリッシュな映画
なかでも、忘れられない場面の一つは(…「忘れられない」わりにはあいまいな記憶なのだが)
園子(岸田)が窓辺で光子(若尾)にラブレターを綴るシーン。


園子は光子を想いながら葉書を書いている、
どんなことを書いているかと言うと、
「いまあなたのことを思いながらあなたに葉書を書いている」と書いている。


わたしはみっちゃんのことを思いながらこうして手紙を書いています、外では雨が降っています、
ぽつぽつぽつぽつしとしととしとしと
だんだんわたしには雨音がみつみつみつみつと聞こえてきます
ぽつぽつぽつぽつしとしとしととしとみつみつみつみつ

  (うーん、ちょっと違ったかな。、、、まあこんな感じ。)


とにかく、こうやって光子への思いが向かうままに筆を進めていると、なんとまあ、いつのまにか書く筆が葉書の枠を超えて、自分の手、そして腕に「しとしとしとしと」だか「みつみつみつみつ」と書いてしまっているのです。


すごくない?


外の雨音が自分の想いの音に重なり、その想いは、葉書という書き物の範囲を越えて、自分の身体の上に刺青のように綴られ刻まれていく。ラブレターを、というか恋というものの「マジメさ」や「楽しさ」を滑稽なくらいお大げさにしている。


『卍』は、映像の美しさや物語性を損なうことなしに、こんなキャンプなシーンが満載なのだ。
光子との逢瀬を、同じ屋根の下で妻と夫とが時間を決めて交代制にして取り合ったり。園子と夫と光子、三人揃って、園子が描いた光子観音に手を合わせたり。
園子の話を聞く作家の嫌そうな醜い顔も。
なにより岸田今日子の超越した演技。
、、何を超越してるのかさえわからない超越っぷり。監督すごい。