『バス174』
彼は突然、なんらかの行為者になっている。
自分が起こしてしまったことが、そして自分がこれから起こそうとする行為が、いったいどのような意味をもつ行為なのか彼は知らない。彼の行為の意味や位置づけは、彼にとっても、誰にとっても、自分が見ている視点から部分的に垣間見ることしかできないのだ。
それでも彼はすでに銃を持つ行為者に、人質をとってバスに立てこもり、周囲を警官や市民に囲まれた「行為者」になっている。今まで彼の要求など聞いたことのない警察が、「社会」が、彼に「お前の要求は何か」と問う。
見通しの悪いバスのなかで、彼はもう何かをし始めてしまっているのだ。
彼がそこでまっさきにしたことは、文字を書かせること。
彼は人質にバッグ開けさせ、口紅を見ると、それで窓に文を書けと命令する。
人質は、彼女の判断で「外の人から読めるように」反対向きの文字で窓に文字を書く。
「彼はわたしたちを皆殺しにする、6時に」
口紅の文字はバスの窓じゅうに書かれていく。
彼は(銃を人に向けることによって)初めて注目を浴び、外のヤツらに「自分の声」を聞かせる(ことができるかもしれない)機会を、行為者になる機会を得たのだ。
自分が起こした事件を通じて、事件が起こったことによって、「言いたいこと」が出現する。
その「彼の声」が、「彼の言いたいこと」が、
他人(人質)によって、
外の人にわかるように(中から逆さ字で)書かれた言葉で(「外(他)」の言葉で)、
「わたしは」という一人称ではなく「彼が」という主語の文章であることが
この事件を、
そしてこの事件を一つの物語にしたこの映画を、
この映画のなかで彼についてコメントしていた人々の話を、
あるいは、
映画を通じてとりあげられたストリートキッズや囚人たちを
象徴的に示しているようだ。
「彼の声」が聞き取られるときは、「代弁者」を通して、
代弁者に翻訳されてから。
そして映画は彼の声/事件を、"何か"を代弁する声として、翻訳していく。あの社会学者のように。
(彼が何らかの声を発していると気付かれるのは、彼が餓えて食べ物を乞うときでも、劣悪な刑務所の高温の監獄に立って寝ているときでも、人々の命を奪うような恐怖を与えているときでもなく、
彼のもつそのような現実的な脅威が去り、彼(の事件)が日常の言語で制御できるようになってから。
あのバスに書かれた文字を、彼の主張として「読む」のは、彼がもはや現実性をもってその不可解さによる/不可解さという恐怖を与えることがなくなった、ただの読み取りの対象となったから。彼という存在の現実性が薄れ、ひとつの物語、謎解きのコードとなったから。)
彼は何度も「これは映画じゃないんだ!」と叫ぶ。
「昨日のテレビではこうしていた、けど、これは映画じゃないんだ」
まるで現実はフィクションを引き合いに出すことでしか確認できないかのように、
彼は繰り返す。「これは映画じゃないんだ」
作り事じゃないんだと叫ぶことによって
彼は現実性を確認し、自分の存在の現実性を獲得しようとする。
、、いま、映画として編集された彼の事件は、一つの解釈された物語となり、他の映画と比較され消費されていく。