解決できない映画

spongey2005-12-12


先日黒澤明の「どですかでん」を見た。舞台を見ているような感じのする場面設定だったと思うけど、それはさておき、出てくる人がみな貧乏で、みなそれぞれに大変で、問題アリまくり。そして、誰一人の何も解決することがない。みな「自分の問題」に目を向けることなく、まるで避けているかのように問題のまわりをグルグルとまわっているのだ。もっとも顕著なのは、家を建てることを夢見ているホームレスの父子で、父親はどんな家を建てるのかという夢の話しかできないから、家を建てるために「何をすればいいか」ということを考えることはなく、それどころか生活するために食事を見つけることもできず(子供にやってもらい)、子供が食中毒になっても、それを食中毒だと認識するのを拒み、ただ家の設計の話をし続ける。もどかしいようなツライ気持ちになる。
と、思ったところで、ふと気づかされる。「問題が解決するかどうか」という視点は、いったいどういう視点だろうか?と。そこに起きてることを「解決できるような問題」として捉え直そうとすることは、もちろんそこに起きている「ナニゴトか」を自分が扱えるように「捉え直そう」という態度なわけで、実際それはそこに「『問題』が解決した状態」をわたしの見方で設定しているからこそ、「問題」が浮かびあがっているのだと思う。
と、言いつつも、やっぱりわたしはリソースのなさというものを問題として捉える病気なので、お金や情報や施設、、というふうに「何か」が「足りない」と見えるのだけれど、そのへんをこの黒澤映画はどのような問題をして捉えているのかはわからない。つまり、個々人の問題(社会システムの問題ではなく、個人的な問題)としてるのか、恵まれない状態の人たち(つまり社会的状況との関係)の問題としているのか、それとも、わたしたちにはもう「問題の核心」というような通り一辺の見方ができない(ポストモダン?)っつうことなのか。


問題のまわりをグルグルまわるだけといえば、ブニュエルの「皆殺しの天使」。それから、問題(食事にありつけない)は明確なのに、どうしても解決しない「ブルジョワジーの密かな愉しみ」、「(問題)」が症状として表れる「エル」
えっとあとは何があったっけ?これらは、「問題→解決」という枠組自体、あるいは「ナニゴトカ(問題)の核心」という捉え方ができない映画だと思う。


それからだいぶ話が変わるけど、アレン・レネの「夜と霧」は、カメラがとらえることができないことを見せようとする。かつてそこで起こったことを、未来へ向けてわたしたちに浮かび上がらせようとする美しい映画。見ることができる人は必ず見るべき映画だと思います。