『ボーイズドントクライ』/『スウィート・チャリティ』 

『ボーイズドントクライ』という映画について、「あなた、以前、刑務所での腹筋について何か言ってたよね?」と友だちに言われたけど、全然覚えてない。、、なんだろ?
いま思い出せるのは、エッチの場面と生理用品盗むところくらい、、腹筋と合わせれば、割とポイント押さえてるかな。(なんのポイントだ??)


と、そんな話をしていて、今日思い出したことがあるので忘れないうちにメモっとこう。
それは、『モンスター』と『スィート・チャリティ』のそっくりな相違点、、(ん?)


二つの映画が、どんな話かというと、、、

『スィート・チャリティ』は(シャーリー・マクレーンが可愛くって、わたしにはあばたもえくぼにしか見えないのだけれど)、主人公の名前(charity)からしてズバリ、「娼婦=聖女」の物語。


『モンスター』は、実際の死刑囚の事件を元にした映画。
「娼婦=あばずれ=レズビアン=人殺し」という転落図(こう言われたくないかもしんないけど。、たとえば「レズビアンの表象」として見たときに、ポジティブかネガティブかって考えると、、そもそもレズビアンが出る映画自体が少なくバラエティがないことも併せて、、、どうよ?ってわけで。、、あるいは「娼婦の表象」としてみたときも同じく。)
そのうえ、わたしは、この映画は「知能指数の物語」として検討されるべきじゃないかって思っている。個人の能力と社会との関わりに注目できる映画だったので。


で、わたしの記憶が確かなら、この二つの映画には、似たような場面があります。
主人公が、水商売から足を洗いカタギの仕事につくべく職安を訪れるところ。二人ともカタギの世界を知らないので、職安でもチグハグな受け答えをし、失格になって追い出されます。
この同じ設定の場面が、二つの映画では全然違うふうに描かれているのです。


 『チャリティ』では、その世間知らずっぷりがとっても愛らしく、キュートに描かれている。彼女のそれは欠陥ではなく、無垢さや純粋さの表れ。その証拠に、別の場面(閉所恐怖症の彼とエレベーターで出くわすとき)では、彼女は持ち前の優しさを発揮する能力がある。聖女なだけに、「持ち前の機転」や「知能」ではなく「優しさ」なんですね。
 こうして、チャリティは生来の「娼婦=聖女」であるべき人物なのです。


 一方で『モンスター』ではどう思いました?
わたしには、「無垢で世間知らず」というより、認識能力や対処する力の「欠如」と感じられました。(この人が持っているであろう娼婦商売の知識や技術はカウントされないし。)しかも、「欠如」しているだけでなく短絡的で暴力的でみっともない。こういう人を切り捨ててしまう社会や、こういう人がセイフティ・ネットに届かないところが、この物語のつらいところだとわたしは思ったのです。 
つまり、この映画では「選択がない」ゆえの「あばずれ=娼婦=レズビアン=人殺し」


えーと、だからなんだっけ???
、、こう考えると『チャリティ』は、彼女の状況をまるで彼女の天性かのように描いていて、見る側にとって都合のいい話。一方、『モンスター』は、愛や感情や性格うんぬんに終始するのではなく、性差別を含む社会制度に切り込んでいく可能性をもった映画だったと思う。そうであって欲しかった。(つらい話なので二度と見たくないけど。『チャリティ』は可愛いから何回も見た〜い!)