『トランスアメリカ』

(手術前の)トランスセクシュアルの女性ブリーが、17才になって突然現れた自分の息子とともに、アメリカを横断することになる。息子トビーは売春や窃盗で暮らしを立てていて、夢はポルノ映画のスターになること。父親に会ったことがなく、ましてや、ブリーがそうだとは思ってもいない。

タイトルの「トランス」とは、ブリーが身体を変える手術を受けるまで、アメリカという土地を横断しながら、トビーとの関係が変化していき(存在すら知らなかった「無」関係から、家族という関係へ)、ブリーの父母妹との関係も変化していく、、そういった変化のこと。


トランス女性を演じているのは、フェリシティ・ハフマンという(デスパレートな妻たちの)女優、つまり「(もともと女)」の人なんだけれど、この人の演技のおかげで映画が面白くなったと思う。
(それを思うにつけ、偶然複雑な意味あいを帯びた「Mバタフライ」のマヌケさは、あれはなんなんだ、すごいね)



で、いま、日本でのこの映画のサイトを見たんですけれど、「スカートのしたになにがあるかよりもっとだいじなこと」っていうコピー、、これってどうなの???安っぽくない?


ほんなら、そもそもどうしてブリーはそんなにも手術を望んでいるんだ?
スカートの下にナニがあるかを(社会によって)絶えず問われていて、それが自分の存在に深く関わる(とされている)からこそ、あんなにも手術を必要としてるんじゃないの?


それなのに、やっと勝ち取った性転換手術なのに、「それはさておき、それよりもっと大事なことあるよね」なんて言えるのは、ノンキなもんだよ。


わたしたちが、スカートの下に固執している社会を築き上げていることや、自分のスカートやズボンのしたが問われないことなんかは棚にあげて、こういう「変わった」人が現れたときだけ「キレイゴト」を言って済ます気なんだね。


、、と、この宣伝文句一つに対する文句がつきませんが、、
しかし、まあ、自分で指摘しておきならがも、そう目くじら立てずに「もっと大事なことがあるから大丈夫」って気を抜きたくなることもあるよね、、、スカートやズボンの下を執拗に問われているわたしたちにしてみれば。