五弁の椿 / 反撥

わたしの印象では、女の復讐モノは、たとえ個人的な私怨であっても社会的な公怨?の面が出てきちゃう、、復讐の性質として「社会」を再考しなければならなくなる傾向があるように思います。というのも、怨みを抱く出来事や状況、実行されるまでの過程が、どうしても女の社会的な位置づけに関係しているからです。(男は社会的に「普遍な存在」で「無印」という前提にあるせいか、私怨は私怨のまま晴らせる、、気がします。)
ここでの「女」を「マイノリティ」と言い換えてもいいかもしれませんが。


そう考えると、このあいだ見た野村芳太郎監督の『五弁の椿』(岩下志麻が復讐する)は、誰に復讐するときにも「(善良な)お父さんのため」という言い訳をつけてまわったのが、わたしにはイマイチです。おかげで、結局何をしても「父の娘(男のための女)」という立場に留まり続けることになってしまって、物語に潜在する社会性(ジェンダー)への問いが剥ぎ取られてしまったと思う。お父さんに奉仕する娘として位置づけているために、結局「男」に都合のいい話で終わっているような。(男たらしのお母さんへの愛憎と、母親と自分との関係が復讐の焦点ではいけなかったのかしら。)
いっそのこともっと安易に、庶民の味方のねずみ小僧のように、女の味方となって悪人を倒す物語に発展して欲しかった。
あるいは、ポランスキーの『反撥』のカトリーヌ・ドヌーブのように。この『反撥』は、反撥であって復讐ではありません。このへん奥が深い気がしますが、、奥はさておき表面的なことを考えると、この映画のさまざまなシーンは、彼女の恐れや嫌悪感を表すと同時に、彼女が病気だと仄めかすことで、あのいちれんの嫌悪感を狂気・サイコとしてしまうと、これまた社会的な側面が不問に付されてしまうようで、、、