Mango Kiss

中学のあるとき、友だちと「ここ(学校)、少年院だってことにしよう!」ってことになり、自分たちは収容されている、という設定でしばらく過ごした。他の同級生を見ては、陰で「××は万引き常習」とか、「○○ちゃん、おとなしいフリしてるけど、前科三犯、強盗殺人だってよ」とか、勝手に決めつけて、「こわー!!逆らわないにしよう!」と、何も知らない○○の前でヤケに神妙にしたり、、、学校の行事で草むしりさせられると「やっぱりオレたち社会奉仕で償わないといけないんだ、、」とか言って、まあ、退屈な毎日を乗り越えていたのである。

小学校のときは「不良少女と呼ばれて」ごっこ、中学では「ガラスの仮面ごっこもやってたなー、わたしは「あゆみさん」だった。(一回も読んだことないんだけど、いい役だっていうから頑張りました。ちなみに、北島マヤは、「カビ」というあだ名の男子がやってた。、、ひどいあだ名だな。)

そういうゴッコ遊びじゃなくても、今でもわたしは「役」になって会話をすることがある。友だちとの間でよく出てくる「役柄」は、ワルオと良子(、、貧困な想像力だ!)おじいさん、お母さま、、、と、まあ、他愛のないキャラクターです。たとえば、こんな感じ。友だちが「お茶でもどう?」って聞いてきて、それに答えようとした拍子に、わたしの足が机に当たっちゃったとする。そこで、友だちが「あら、ワルオさん、ダメよ。乱暴な真似したら。」と言う。その瞬間、わたしはワルオになり、ワルオとして振舞うのだ。「うっせーな、ばばあ、茶なんかいらねんだよ!コーヒー入れやがれ!」  で、しばらくはワルオとその母、あるいはワルオと良子になって遊ぶのである。アホだ、、、


こんな風にわたしは役になって遊ぶのが好きなのだけど、とはいえ、エッチな場面でのロールプレイはしたことがない。っっていうか、他にもイロイロと未経験のことだらけだけど、、ロールプレイについては、死ぬ前に機会があれば、一度はやってみたいと思っているのである。


そこで『Mango Kiss』(2004)という映画。
サンフランシスコに引っ越してきたルーとサスの二人は、小さなレズビアン・コミュニティに出入りするようになる。そこはスーパーダディやらミストレスやらがいるS&M/ロールプレイのコミュニティでもあって、やがて二人も「ダディ」と「プリンセス」というロールプレイにはまっていき、、さらに他の人ともロールプレイの輪を広げていく。「ダディ」は「ミストレス」とも遊び、「プリンセス」は「(お仕置きが必要な)子ども」を持ち、さらにさらに、、、、

ロールプレイに加えて、モノガミー/オープンな関係の問題が絡んできて、表面上はクールにロールプレイを楽しんでいながら、同時に、お互いに強烈な嫉妬と不安を抱えるようになる。
ルーが言う言葉が面白かった。
「ロールプレイをしているうちに、混乱してわからなくなっちゃった」


うん。わかるわそれ。映画がここに至るまで、ちょっとまとまりがなくて、アラもあるんだけど、でも、この混乱が上手く描かれているので、その点でこの映画は成功だと思う。


わたしたちの「本当の自分」というのは、ただそのままにそこにあるのではなくて、そのときの自分の立場/手持ちの役に合うように、常に変形された形であらわれ、変形された形で認識されるんだと思う。
だから、どこかに純粋な形で「本当の自分」があって、それが「役柄」というお面をつけるのではなく、、その役についたからこそ、その役に合うように「本当の自分」が作り出され、引き出されると思うんだよね。(「役」といっても、芝居の役じゃなくても、いまいる自分の立場、いま現在自分のボキャブラリー(セリフ)を持つこの立場って意味でもあるんだけど。)混乱してわからなくなってこそじゃい!

というわけで、いろいろな「本当の自分」を「作り出す」という点で、ロールプレイは私には興味深いよ。